てのひらサイズの小さな小さなスケジュール帳とそれに見合う小さなボールペンを買った。 今年の2月から来年の3月までの手帳。 この手帳は記憶していたいことを書き込む。 業務的な予定は書き込まない。 あくまでも記憶していたいことだけ。 記憶していたいことならなんでもいいのだ。
先ずは片手も満たないほどのごく僅かな、数人の誕生日を書き込んだ。そのうち10年の付き合いになる友人の誕生日がいつも思い出せないことに気がつく。彼女は4月生まれ、何年経ってもそれだけがひたらすらに記憶されていて、日付が抜け落ちたまま。3〜4月生まれの人の誕生日を覚えるのがとても苦手なようだ。きっと花粉と春の危うさに気を取られてしまうからだ。 次は直近のことから思い出せる範囲内の過ぎ去った、わたしだけが記憶している、記憶していたいことを書き込んだ。しかしどうしても曖昧な部分が出てくる。 あんなに忘れないと、記憶していたと思っていたのに覚えきれていなかったこと、どんどん溢してしまっていること、この先もとりこぼしてしまうこと、そのことに呆然とした。必死になってあらゆる記録を掘り返した。 その道中、そうしなければ思い出せなくなってきていること、とてもかなしくて、こわくて、悔しくて、悔しくて。なのにそれすら掬うこともできないだなんて。小さな小さな手帳の上で立ち尽くしてしまった。 だけどそれらを思い起こすためにわたしは写真を撮っているのかもしれない。 もちろんただ無心で目にとまったから撮りたくて撮った写真もたくさんある。自分の日常ばかりを撮るのは、忘れたくない記憶を際立たせるためなのかもしれない。
人といるとき、その忘れたくない日こそ、カメラのシャッターボタンを押すタイミングが減り、その風景をひたすらに眺め、焼きつけることが増えた。そして曖昧になる記憶を思い返せる断片を、道標を撮るようになった。
きっと自分の核となる部分に住う人にカメラを向けられないのは、こわいのは、いたいのは、焼きつける行為を自分ではなく、その人へ向けてしまうからなのでは。
心臓がこぼした言葉を遺したり、記憶の貯蔵庫をつくったり、思考を書き留めたり、そのときの不鮮明な夢を、できるだけその時々に見合った手段でもって、できるだけ明確に振り返り呼び起こせるように、この小さな小さな手帳に集約させるために、この小さなほしたちがちりばめられた手帳を買ったのかもしれない。
そう考えているうちにかなしくてこわい気持ちは相変わらず去っていかないままだが、ひとつひとつが曖昧でもいいことにすとんっと落ち着き、写真や、遺した言葉たちを読み、見て、その日付に、誰と会った、ここに行った、こんなことがあった、などと簡潔に、思いのまま大切に書いた。この日付たちは記憶に名前を、目印をつけるためにあるようだなと、日付ってもしかしてそういうものなのかななどと思ってしまった。
しかし9月までしか書き込めなかった。 9月は自分の誕生日がある。
そんな先のことは書けない手帳だから自分の誕生日の書き込みで終わっているが、それでいいのだ。
きっと過ぎた頃にぽつぽつと黒い文字が増えていくのだろう。そういう手帳だ。 来年の3月までどうぞ、よろしく。
