いまから800年ほどまえのはなし
シチリアで生まれたフェデリーコ2世は、お父さんがドイツの王さま、お母さんがシチリアの王さまで、生まれながらに、ドイツとシチリアの王になる運命を背負っていました
しかし、その父母は早くに亡くなってしまいます
お母さんは死ぬ前にローマ教皇に、シチリアをあげることを条件に、息子の面倒をみるように頼んでいました
当時のローマ教皇はイタリアにじぶんたちの領土を持っており、ドイツとシチリアのサンドイッチになやまされていたため、シチリアをもらえるんだったらいいよ、ということでフェデリーコ2世の面倒を見ることをOKしました
ただ、ローマ教皇は好きでもないドイツの王子をわざわざシチリアまで出向いてしっかり育てるなんてことはせずに、生活はできるようにだけして、あとはほとんど放置でした
それでも、ローマ教皇が守ると公言している王子に手を出せる人はいません
フェデリーコ2世は安全に・ほっとかれて育ちました
ところで、当時のシチリアはイスラムもローマもギリシアもごちゃ混ぜになった文化を有していました
そんな中でじゆうに育ったフェデリーコ2世は、6ヶ国語を話し、科学に強い興味を示す天才に育ちました
そして、当時イスラムをポコポコにしてエルサレムを奪回することしか考えていなかった十字軍において、イスラムのリーダーとイスラム語で話をつけて、無血でエルサレムを奪回することになります
このような合理性を持った天才に育った原因は、狭い価値観に縛られずに、多様な価値観の中で育ったからなのかも
始皇帝も織田信長も似たような境遇で育っているような・・・