昨日買ってきたフォカッチャ、カントリーブレッド(胡桃とチェダーチーズ、スマックとサンドライトマト)を少しずつ切って朝ごはんに。昨日の夜端っこを少し切って食べた2種のカントリーブレッド、特に胡桃とチェダーチーズのかりかりとチーズの後を引く塩気がとてもツボで、少しずつと言いつつカットを大きめにしてしまう。

これは昨日の日記になるのだけれど、植本一子・金川晋吾・滝口悠生『3人の日記 集合、解散!』を昨日の日記を書いた後、一気に読み終えてしまった。3人それぞれの日記で、これが読めてよかった、という箇所があり、昨日偶然手にとれた幸運を思った。
金川さんの日記にたびたび登場する、同居されているももちゃんマンさんのことが気になっていたので、上記記事を読めてよかった。日記での描かれ方から、ポリアモリーなのかな?と想像していたけれど、また自分たちは違う関係性であると書かれていた。後編で紹介されていた「リレーションシップ・アナーキー」という概念・考え方にとても興味がある。
『私が諸島である』の著者、中村達さんによる「デコロニアル・ラブについて:カリブ海思想/文学における愛」を視聴した。ラテンアメリカ探訪例会という定例の会の第199回とのこと。
約90分程度のお話は3つのセクションに分かれていた。第1セクション「人間とは何かを問い直す」では、「愛の哲学」(『愛の哲学』という本における「愛の哲学」の定義だったと思う)が「そもそも人間とは何かを問い直すことを要求する」と言い切る前に、そもそも「人間」とはそんなに簡単に使える言葉か?という問いかけから、西洋による「ヒト」の発明によって、人間のあり方が「宗教的人間」(教義に従って生きることができる人間)から理性的・政治的・経済的人間(「他者」とされるのは経済的弱者・貧困の立場にある人)へ変化することで今につながっているという『私は諸島である』でも引用された図を取り上げての説明がなされた後、『愛の哲学』が「人間とは?の問い直し」(意訳)ならば「人間」を西洋の規範の範囲にとどめていてはだめで、植民地の経験を考慮に入れなければという話から、性愛や自己愛とは距離をとった「ちょっとした親密さ」というキーワードを拾い上げられた『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』という作品が紹介される。第二セクションでは具体的な音楽や作品を取り上げながら、カリブ海における宗主国である西洋から押し付けられた「ノーマネーノーラブ」という呪いの具体例の説明と、それを解呪する男女の愛の形が示され、第3セクション「愛したい人を愛する決意」では、第2セクションまでで語られる解呪の方法、脱植民地的愛はそれでもやはり女性を使って男性を擁護するような展開で、異性愛規範に則ったものではないか?とその規範の中で抑圧されながらも、男性間や女性間、今ならクィアと呼ばれる人々が登場する作品のなかに描かれた愛のかたちの紹介がなされた。第3セクションで紹介されていた、カイ・ミラー『動く怒りというものがある』(詩)がかなり好みだったのだけれど、検索を少しした限り、翻訳はされていない気がする。(「壊れるということは、光が入り込む唯一の方法だ」というフレーズが特に好きだった)
最後の質問コーナーで、質問ではないが…と思いつつ『私が諸島である』を読み、一読者として特に14章、15章に感銘を受けた人間のため、第三セクションでの展開を待っていましたという思いで拝聴したこと、第ニセクションまでは、西洋の価値観との対比であってもやはり異性愛規範に則った物語展開ではないかと思っていたので、という感想をコメント欄で伝えたところ、まさにその流れは意識したもので、愛の意味の変遷がカリブ海でも起きていることを示したかった、という趣旨の返答をいただきうれしかった。
新潮クレストブックスばっかり読んでいたころに印象的なタイトルだなと記憶にとどめつつ、手に取ることはなかった一冊、今回のイベントのキーとして拾い上げられている「ちょっとした親密さ」の描かれ方が、紹介されている範囲では好みな気がするので読んでみたい。
晩ごはんはこのイベントを聞くため、だけではないけれど、豆腐麺の上にラタトゥユとピクルスを乗せたさっ食べメニュー。茄子・トマト・ズッキーニ・にんじん・きゅうり・うずらのたまご。そしてこらえきれずにパンも少しかじった。
昨日の日記に書き忘れていたこと。友人がいつのまにか撮ってくれた後ろ姿の写真で、後ろ髪の髪の伸び具合とタイダイTシャツのど派手さを再確認したこと。おしゃべりしながらの散歩途中に友人が「あ!」と大声を出して立ち止まったのでなんだなんだと思ったら、なみすけ付き杉並区ナンバープレート(バイク)を発見した驚きの声だったこと。会話を遮ってごめんと謝られたけど、こんなの教えてくれなきゃ困るよ!そろそろなみすけのなんらかのグッズが欲しい杉並区民ではない人間。