1月8日

socotsu
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昨日寝る前くらいから、仕事を鼻先に突きつけられているような考えに取り憑かれてぶるぶるとふるえていた。休みが終わる気配を嗅ぎつけるのが早すぎて損をしている。別に次の週末にはまた休みがやってくるのに、この長い休みの最後の日だけ、なにか特別な締めくくりにふさわしい過ごし方をしなきゃいけないと自分を追い詰めてしまうのはなぜだろうか。仕事に行きたくない、を分解して考えてみると、朝早起き、気働き要素が多いのふたつが2大仕事いや要素で、内容自体がいやではないという、もう幾度めかの気づきを得る。

よく行く街のちょっとしたお祭りのような催しに遠方の好きなパン屋が出店することをSNSで知り、まあ間に合わないだろうな頭の片隅で思いつつも、間に合わなかったことを確かめずにはいられない性分のため、SNSで該当パン屋のストーリーを度々確認しつつ、現地まで向かったところやっぱり売り切れていた。肩を落としつつもうひとつ気になっていたパン屋(都内)のパンを買い、近くの好きな本屋で前から買いたかった本を買う。年が明けてからもう2度目だけれど、やはりあのお店は本のラインナップ、空間ともにとても落ち着く、都内有数の個人的落ち着き(大丈夫)スポットです。本のラインナップ(選書)があの空気を形つくっているのもあるだろうけれど。このまま歩いて行ける距離か、あるいは電車に乗って移動した先の店で食事をとるかパートナーと相談の上、後者を選択し、次の目的地へ向かう。電車の中で珍しく買った本を即読み始めた。エッセイなのももちろんあるけれど、作者の方の課題に共通ところが多いのもするする読める(内容が軽いわけではないが)理由の一つなのだろう。生育環境が近しいわけではないが、多分わたしのように思う人が世の中には多くいるのだろうなとも思う。

土門蘭『死ぬまで生きる日記』

今読むべき本だなと思いながら読み進めている。しかし、人間の内面を構成する要素を「母性」「父性」という捉え方をするカウンセリングの用語の使い方はかなり苦手だ。「自分自身のお母さんになる」という表現もうえっとなってしまう。またそれとは別に「あなたは今こう考えているんですよね」というような会話の返し方をする人があまり得意じゃない、と思ったけどそれは自分に親身な素振りを見せる人の大半にいつも(わたしの大して面白くもない話を聞いてどうしたいんだろう)という失礼も大概にしろと思うような考えを抱いてしまうからであって、お金を払った相手の話を仕事として聞く反応としては当然のものであるよな…傾聴…

(追記)最後まで読み終えた。筆者が「死にたい」を別の言葉で置き換える道を模索する過程は、読み進めながら自分も並走しているような心地になっていた。カウンセラーの本田さんがいなくても、そのカウンセリングを経た経験をお守りのようにして持っていれば大丈夫になれる、という気づきは一読者であるわたしにも転用可能かもしれない、非常に重要なポイントだったと感じる。カウンセラーという衛星と通信していた火星にいる人として自分を振り返る箇所も。しかしなぜ自分で自分をケアすること、感情を言葉に出して認めることを「お母さん」と呼ぶのだろうという思いはつきまとった。

パン、スープ、パテ

使う食材は変わっても、ここのもったりしたスープがとても好き

カンパーニュとバター、ジャム

スープにもパンをつけたのでパン祭りになってしまったが悔いなし。ここの分厚めに切ったリベイクなしのカンパーニュにバターとジャムをつけて食べるのが一番好きかもしれない。

カンパーニュのオープンサンド

めちゃくちゃ好みというわけではなかったけれど、りんごとソースの使い方が他ではみられないおもしろい、凝ったとりあわせでよかった。

好きな飲食店は多いけれど、服を買う場所には困る街かもしれないなと思いながら、歴史的建造物としては好きだが入っているブランドにほとんど興味はないデパートと建物は新しくて綺麗だけれど以下同じ、の店をひやかし、甘栗とヨーグルトを買って帰った。

実は甘栗が好き。

トーヴェ・ディトレウセン『結婚/毒』

こちらは昨晩読み終えた。読みながらちらついていた「ナポリの物語シリーズ」の名前があとがきにあがっていて非常に納得。かわいた短い文章のなかにはっとする描写がある。主人公が職を転々とする、結婚離婚を繰り返す、薬物中毒になる、と手に汗握る箇所が結構あるのに基本淡々としている、しかし読ませる文章。

連休でやる気に満ち満ちていたうえに書けることが多い日々も終わりを迎えたため、これからはひとつひとつの記事が短くなる予定です。

@socotsu
そこそこ