いつもよりかなりダラダラと布団の中で過ごしてしまう。夕方外食の予定があったので、いつも休みにやりがちな、中途半端な時間にお昼と晩ご飯をドッキングした食事をとる、という選択はとらなかった。寒いし雨も降りそうだし、とぐずぐずしているうちに時間が過ぎてしまったため、早めに外に出てあれこれお店をまわったりもせず、編みものをしたりインターネット上の争いを鑑賞したり、昨日の観劇に思いを馳せて、SNSで仮想敵に喧嘩を売るような発言をしたりする(よくないよ)。昔は自分があまりおもしろくないと思ったものにもファンはいるのだから、とぐっと飲み込んだりぼんやりした感想で茶を濁していたけれど(※これは個人の見解です)などと注記をしなくてもただの一個人の感想にしか過ぎないし、思ったことを中傷にならない程度に書く方が、いやがってもファンコミュニティのすみっこに存在することには違いがないただの一ファンとして、風通しがよい環境を作ることにもつながっているのでは?と思うようになった。結局誰かへの配慮というわけではなく、批判の説得力を高めるために、より表現に留意した悪口を模索するしかないのだと感じる。自分本位の発想。でも悪口をいうなら精度を高めて、ねらった方向に投げられるようにしなきゃね。思いもよらないとんちんかんな方向に飛んでいって、刺すつもりではない人を刺してしまうのは不本意だ、などと言いつつ、それをコントロールできるものだと思い込むこと自体が傲慢なのだろうが。しかし見なくてよかったとは思っていないが、勉強代としてはいまのミュージカルのチケット、あまりにも高く、これでどれだけおいしいものが食べられただろうか、と遠い目になってしまう。コストパフォーマンスだけを考えて消費行動をとってはいないけど、1万円超えのチケット代を払って3時間拘束される趣味を生活の一部にしていた時代は自分の中で過ぎ去ってしまったのだな。かなしいけれど。
甘くない噛み締め系クッキー、やっぱり好きです。目白にあった小さな対面販売のお店に灯ったあかりをめざして駆けていったときのことを思い出す。
この半年くらい、それまでよりも外食頻度が高まり、ある程度おいしいけれど突き抜けたものはないかもという外食体験の回数も増えていったように感じる。あまりにもぜいたくな話ではあるけれど、舞台作品を数を見だした頃を思い出す。しかし観劇は感想を共有することはあっても、基本一対一の趣味だと思っているけれど、外食の場合、ひとりで一度にたくさんのメニューを味わうことはめったにないので、自分以外のだれかとリアルタイムでそれを分かち合うことになる。おいしいが、どの皿もほかの店より突き抜けて感動するほどであったかは迷う、という体験の場合、後から思い起こしてその食事の時間が得がたいものだったかどうかは、だれとどのようなタイミングでその時間を共有するかにかなり左右されているな、という当たり前のことを思う。味は知りたいけれど、だれとでもいいわけじゃないのは、くつろいだコミュニケーションが取りづらいわたしという人間の性格によるものだなということについて考えるとき。海が見たい 人を愛したい と口ずさみながら。