5月9日

socotsu
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完全に着る服を誤った日。タイツも履かずにスカートを履くタイミングではなかったなとぼんやりしながら、初めてスカートを履いた人のように腰から下のすーすーを感じていた。冬はだいたいモコモコで、1ミリも寒さを感じたくない人の格好を心がけているのに、突然の冷えに弱い。でも夏はけっこう薄着をします。

何をやったか覚えていないわけではないけどあっという間にすぎる平日のうちの1日、冷凍していたいつかのシュウマイを蒸す。シュウマイのときは蒸籠に野菜を敷くことが多いのだけれど、今日はよさそうな葉物の在庫が野菜室になかったので、1/4にしてはいだ、花びらかボートのかたちに似た新玉ねぎの上にのせた。プラス3日連続トースター野菜。今日はズッキーニ、たけのこ、かぶ。

ほうろうの長方形の容器にズッキーニ、かぶ、たけのこが入っている マスタードシード、塩、オリーブオイルをかけて焼かれた状態

あつあつの状態より、少し冷めてからのほうが甘みを感じる。

夏を呼びこむような鮮やかな黄色のニューサマーオレンジもむいた。

カットしたニューサマーオレンジ

しばらく寝かせておいた原田裕規『とるにたらない美術』をようやく読み終えた。

ラッセンへの興味がかなり薄い状態で読み始めたので、彼の経歴についての記述をいまいち身が入らない状態で追っていたのだが、ラッセンのモチーフの分析、日本におけるラッセン受容のパートに入ってからぐっと興味を持って読み進めた。

メンドシーノで幼少期を過ごしたラッセンが、アメリカの雄大な自然を原風景としていたことを思い出してほしい。ハドソン・リバー派による「理想化されたアメリカ」は、ラッセンにとっては「幸福な幼少時代」に重なって見えたのではないだろうか。ハドソン・リバー派の画家たちが、アメリカの大自然を──実際にはそこには古くから人々が暮らしていたにもかかわらず──「発見」される対象として描いたことは、メンドシーノという「先住民から奪った土地」で生まれたラッセンにはどのように映っていたのだろうか。

興味深いことに、ラッセンがこうした「発見」される自然観をハワイの風景に当てはめていた可能性を指摘することができる。

(中略)

しかし現実のハワイのビーチには、ラッセンが描いたような劇的な風景はほとんど見当たらなかったのだ。

(中略)

このような「理想化」は、ラッセン本人にとっては、幼少期の原風景と現実の風景を結びつける作業であり、それと同時に「アメリカ人」というフレームで見た場合、もともとは独立国だったハワイを西欧人が「発見」した視点に重なる営みだったのではないだろうか。

ラッセンの描くビーチが現実のハワイのそれとは乖離し「理想化」されているものである、という着眼点からラッセンのハワイ観を探るパートが特に興味深かった。パートナーとこの本の話をした際、ラッセンの絵にドラッグストアや家電屋の蛍光灯の光と同じ種類の直視できなさ、激しさを感じるという言葉が出てきて、あの「惹かれる」というのとはまた別の圧力ってなんなのだろうなと改めて考えざるをえず、また、日本でのラッセン受容、「ネタ」的な扱いへの変化に関する記述については、「美術」としては周縁化され続けるのだとしても、限定された業界の権威ではなく、「世間」における評価は社会のムードによっていかようにも変わるのだ、という当たり前の事実を突きつけられる。ラッセンに関するテキストに限らず『とるにたらない美術』というこの書籍のタイトルは、それを「とるにたらない」と考えるのなら、わたしたち側のなにがそう感じさせるのか、見ているものへの快・不快の感覚をひっくり返し、見る側の固定観念を問い返されるような論考それぞれにかかっている。

掲載媒体の制約もあるのだろうけど、もう少しこのテーマで掘り下げて読みたい、というところで終わってしまってもどかしさを感じるテキストを数えつつ、ラッセン以外だと「アンリアルな風景」「アール・ローランのダイアグラム」が特におもしろかった。「ハワイ紀行──波打ち際を歩く」は数ヶ月前に見た展示を思い返しながら読んだ。

@socotsu
そこそこ