昨日パートナーから「西洋美術館の企画展今週末までだよ」と告げられたときから、鰯のポルトガル風塩焼きと西洋美術館が頭の中で天秤にかけられてぐらぐらしていたけど、結果二兎を追って1.7兎くらい得た気がする。つまり鰯をやーっと焼いて食べてから西洋美術館に駆け込んだ、しかしあと最低一時間は欲しかった、という意味。久々に食べた鰯がとてもおいしかったのでよし。
クッキングシートをフライパンに敷いて焼く方式だとフライパンを洗うときに楽。
見てよかった。これだけ多くのアーティストの作品があればどれかはひっかかるものはあるのだろうとも思うし、ではこの企画展のタイトルに合う構成であったか、という全体を貫くものを問われたらそこまで語ることはできないのだけど、ロダンの「転倒」と「水平社宣言」の起草者として知られる西光万吉の「転向」を重ねる小田原のどかや、美術館というインフラはだれにひらかれており、そして誰にひらかれていないのか?という視点から西洋美術館へ複数の提案を行った田中功起、松方コレクションや松方幸次郎が想定した「アーティスト」を批判的に読み解く飯山由貴に惹かれ、特に圧倒された「反幕間劇」弓指寛治の「上野公園、この矛盾に充ちた場所:上野から山谷へ/山谷から上野へ」をもっとじっくり見たかったなど時間の制約があったことへの後悔が募っている。上野にある美術館という立地の、描かれた内容への距離の近さ、公共かつ権威を持つ場所に展示されることの意味を強く思った作品群のひとつ。あのぎゅうぎゅうに詰まった展示空間に置かれていること、あの配置で見るよさもあった。また「物語テーブルランナープロジェクト」のin 山谷もとても好きで、時間ギリギリに戻ってもう一度見た。ひとつの作品を「語り手」「描き手」「縫い手」の三者が関わって三層になっており、それぞれにバトンを渡していくこと、そして「縫い手」からのバトンはこちらに渡っていること。
しかしこの「反幕間劇」のキャプションの一部に「ここで試みられるのは、けっして社会問題の告発ではない。むしろ、国立西洋美術館がこれまで見つめてこなかった世界の様相である。」とあり、そこはAかつBである、ということもあるだろうよ、と思ってしまったのですが、どうなんでしょうね。否定されるものを書いた人がどのような行為だと受け取っているのか。
田中功起の提案、プロポーザルは自分が生きる上で大事にしているもの、したいものにかなり親密な内容で、このような提案が「西洋美術館」に向けてなされていることの意義と同時に、ここに足を運べない、アクセスが困難な人たちのことを思い浮かべた。公共空間をどうデザインするかは、その国がどのようにひらかれているか、誰を排除・差別しているかを公の元にさらすことだ。その公共空間をノイズなく使える側として、使えない側のひとが存在し、またそれぞれが使えない理由はなんなのか、を知ることから全て始まる。
また、このプロポーザルで知った「ペイシャンティズム」(この社会システムが健康な身体を前提につくられていることを問題視し、患者の身体を基準にした社会システムに変える可能性を示す考え方)についてももっと学びたい。『ケアのロジック——選択は患者のためになるか』を読めばいいのかな。
しかし中林忠良のエッチングもルドンやルドンの師の作品にものっけから心を寄せたり、長島有里枝の展示の一部として置かれたピカソの犬や猫(とてもいい)の作品に大興奮したり、このテーマの企画展を見にきてそれでいいのか、という心の動きがあったことも書き記しておく。