一度起床し、まだ目覚まし前の時間だったので二度寝。なんだか目覚ましが全然鳴らない気がするが…?と起きたら起床予定時刻より1時間半ほど過ぎており、ひ〜え〜〜〜とLINEで友人に謝り倒し、約束の時間を後ろに倒してもらった。目覚まし時計はセットされていませんでした。こんなポカ、何もこんなに楽しみの予定の日にやらんでも…と落ち込みながら準備を進め、目的地に向かったところ、タイミングよく乗り換え駅で友人と合流できたのはほんとうになによりだった。
焼きたての全粒粉パンケーキの薄茶色とほかほかの香り、友人をならって2枚は一枚ずつ、2枚は重ねたまま食べた。粉の存在を感じるかみごたえ。四角く切られたバターが豆腐のような真白さ。テイクアウトももちろん楽しいのだけど友人とこの焼きたてパンケーキをイートインしたかったのでうれしい。
その後友人宅の近くの魚屋とパン屋で目当てのものを買い、友人宅へいつものように雪崩れ込む。バゲットを抱えて歩いてるここはシャンゼリゼ通りか?などと軽口を叩きあう。
友人が調べてくれたレシピに沿って生の小松菜ざくぎりと柑橘のはるみをオリーブオイルとバルサミコ酢で和える。ここでコーティングすることで後で塩しても青菜がしおしおにならないままぱりっ、が保たれるんだなふむふむと思いながら、ホタルイカの下処理をする横で友人はホワイトソースを作るよい分担プレー。気づかなければよかったものランキングでホタルイカの嘴は何位くらい?でも年間での遭遇回数は低いから、そこまで上位でもないかな、などと話しつつ。途中でだしがらのその後の展開の仕方(佃煮など)を尋ねられ、何か変だなと思ったら、たぶん以前のわたしの説明の仕方がまずかったと思うのだが、彼女のなかでわたしのパートナーが出汁を週の頭にひいていることになっていて大笑いした。その都度だしパックの家だけど、友人を見習って今年は出汁をひいてみたい。
黒いもけもけの参加。
長谷川町子の小皿が間に合った❕
サトイモと牡蠣のグラタンおいしい。白子を入れがちだけどこちらの方がヘルシー(?)に食材の旨みも味わえる気がする(??)。
かわいい全体像も。
途中、今のはポッドキャストにした方がいい(?)というようなおもしろトークが度々飛び出したけど全て忘れてしまった…
甘いものも食べます。ヴィクトリアンケーキはイチゴとバナナのジャムがおいしく、キャロットケーキのフロストと粉〜〜となる土台、抹茶のケーキはほろ苦く、バニラチーズケーキの甘味と塩気、ココナッツドリームのオイリーなトップとほろほろくずれる下部の生地、全部違って全部それぞれのよさがあった。
友人と食べたり飲んだりしながら話し続けていたら、友人のお子さんが帰ってきて遊んでくれたりあれこれ世話を焼いてくれたりしてありがたいことだった。友人の子であっても「子ども」という存在を積極的にかわいがったり遊んだりするパワーは基本的にわたしにはないものだと思っていたし、今もほとんどないのだけれど、一番身近な友人の子として定期的に会う機会が多い彼は「子ども」ではなく○○くんという個体の人間として、自分の(非常に数少ない)近しい人の枠のなかに入っているし、相手にとってもこれからもその枠に入れてもらえたらこんなにうれしいことはないなと思う。年若く守られるべき存在と、その人を守るべき存在という大きなカテゴリ分けはもちろんあるべきだけど、個別の意思がある人たちをかたまりでくくってかわいい、かわいくない、とみなすのはは自分にはなじまない、ちょいちょい家にやってくる謎の人間としてこれからも存在し続けていいでしょうか、という立ち位置です。なんだかえらそうなことをいいつつ、この友人のお子さんを通じて、それぞれの子どもが「○○さんの子ども」であると同時に「○○くん」というひとりの人であることを身をもって知り、ということはみんなそうなの…?という気づきを得るようなぼんやりした人間の話。
8時間くらい話し続けてもまだまだいけます、な友人との話を振り返りながら、須賀敦子さんの随筆で知った、一トンの塩をいっしょになめることでようやくその人を知ることができる、というような譬え話を思い出していた。たぶん物理的に合計一トンの塩を使った料理を一緒に食べるくらい、という意味ではないし、そもそも一緒にご飯を食べることで、という意味ではないと思うのだけど、どうしても食事をともにすることを仲良くなるという行為に結びつけてしまう人間は、食べ物に含まれる塩の話と読みとってしまいたくなる。