起床直後、ぼんやりした頭で目にした自分の部屋が想定していたよりきれいで、机の上を二度見してしまった。本格的に友人を家に招くことにするとそういうことになるのだった、という忘れかけていたひとを家に呼ぶことの効果を思い出すとともに、楽しく過ごした翌朝のどこか空間のすかすかした感覚も同時によみがえる。しかし家の主の一人としてやったこと、ワインの栓をあけるくらいでたいへん不甲斐なかったので、次回は何か作りたいと思いつつも、世の中にはわたしが作るよりおいしいものがたくさんあるのでね…ごちそうよりの自炊をがんばりたいと言っていたくせにこのありさまである(CV.キートン山田)。
自分比で早起きできたら行こうと思っていた月1間借り営業の朝ごはん&スコーン販売のお店へ。スコーンはかなり少なくなっていたけれど、満足いくくらいの個数は買えてよかった。
オオカミの口とみっしりどっしりした外観から受ける第一印象にたがわぬしっかり詰まった大好きなタイプのスコーンだった。来月も足を運びたい。
今日はどこに出かけようかね、と相談し、評判になっていた企画展最終日に滑り込む。
「ていねいに」という表現ってプロの仕事としてどうなんだろうというわずかにおぼえた違和感がずっと尾を引く展示だった。見ながらどんどん冷めていくのはなんでだろうという思いを抱えながらパートナーと最後に合流し、お互いなんとなくうーんという思いを抱えていることだけ軽く交換した後常設展へ向かうも、そのままの頭で見たのがよくなかったのか、個人的に今日ははずれだったのかも、という思いを消せぬまま美術館を後にした。
意見が一致する必要はまったくないのだけれど、なぜ面白く感じられなかったかの話をパートナーとできてある程度消化された気がする。作品のよしあしと自分の好みかどうかはもちろん、キュレーションへの疑問がかなりあり、当時の作者の雑誌記事をそのまま大量に展示することで作品のコンテクストを補完するやり方も、その記事の小さな文字をここで一生懸命読むことでしか得られない何かがないとは言わないが、雑誌自体はあとからいくらでも読む手段はあるだろうし、かさましにしか思えないのだがというもやつきが残った。自分の写真という表現との距離感、きらいなのではなく、いつまで経ってもどのように見てよいかわからないというコンプレックスと表裏一体の苦手意識も、またこれはかなり思い込みもあるのだろうが、ある年代のおにぎり左翼男性のマチズモを勝手に感じて一気に冷めてしまうパターンが自分のルーティンとしてあり、それはそれでどうなのか……とも感じている。出会い直せたら出会い直してみる機会を得たい写真。この美術館の企画展で何度かキュレーションにこれじゃない感を味わったことがあり、その経験からの先入観もあるとは思う。
観客は中平を研究する人の研究室を訪れたと考えた方が良いのだろう。そして研究であるからには、その活動に安易な序列をつけないのは当然のこと。中平が発表した当時の写真や文章を丹念にたどりながらその足跡を問い直し、鑑賞者ひとりひとりが研究者となって、伝説にまみれた中平像を再構築するような仕掛けになっていたのだ。
どうなのでしょうか…と思うけどこれ皮肉も含まれてません?
夜も昼も一番の鑑賞方法はおそらく川底を歩くことだなと思いながら、並行世界の花見をこちら側から眺めているように川面に映る桜の枝と、その上を流れていく花筏を見ていた。