通勤経路にあるツツジの鮮やかさは、平日の朝のろのろと歩いているわたしには眩しすぎる。去年もこんな具合だったっけとぼんやり記憶を遡ろうと試みるものの、白と赤に混じって一番主張の強いフューシャピンクの気迫が目の端だけにとどまってくれない。うっかりすると飲み込まれそうで、この低木に沿って主体性なく進んでいくと、会社ではない、どこか別の場所に運ばれていきそうな気配もする。いつもの場所からまったく見知らぬ場所に迷い込んでしまう物語に親しむ心を失わぬまま、今日も職場に行き、はつらつとした様子で働いてしまった。魔法学校に入学したり、未知の世界で右も左もわからぬ人間として生きるにはおとなになりすぎている。おとなになったら全然好きじゃなくなるかもしれないと思っていたものはだいたい好きなままで、ずっと好きでい続ける、あるいはとてもよい思い出を抱きながら生涯を過ごすのだろうなと思っていたものとは決別し、ままならぬことよな、と思いながらビタクラフトが玄米を炊く、ぷすぷすした音を聞いている。
しかし今朝は昨日読み終えた『私が諸島である』のよい余韻とともに目覚め、一晩経っても消えない興奮を残す本は、たとえ身体はここから動かぬままとしても、わたしを知らない世界へ連れて行ってくれる、というおもしろい本に出会った際、幾たびも発見する思いを再度掘り起こした。言葉は家、というフレーズが登場したことを思い出しながら、本は旅、と思っている。
14章のカリビアンフェミニズムについての章を思い返しつつ、前の章まで着実に事例を示し、積み上げてきた彼らの功績を転覆させるような構成に、ル=グウィンのアースシーの物語(ゲド戦記)の前半3作と後半3作の視点の転換をかってに重ね合わせてしまっている。「男は真の魔法使いになれるけど女は亜流呪い師どまり」『もろきこと、女の魔法のごとし』『邪なること、女の魔法のごとし』とされる世界のあり方とはどういうことだったのか。
晩ご飯、長谷川あかりさんのレシピをベースに湯引きした鱈に刻んだ大葉とクリームチーズ、ヨーグルトをあえたソースをそえたらおいしかった。ヨーグルトはマヨネーズの代替。これと筍、アボカド、トマト、モッツァレラのサラダ、筍の炊きあわせの残り。図書館に本を返した帰り道、しとしと降る雨の中、ひんやりした空気を割いて鼻先に香る甘さに周囲を見渡したら、今年初めてのジャスミンを見つけた。