早めに起きられたのでジムに行ったらやっぱり空いていた。みんなどこに行ってしまったのか、それともいつもこうなのか。
朝ごはんは昨日お土産に買ってきたスコーン。

おいしいけれど、パートナー的にはSBSの方が、ということらしい。これは総合得点、好みの問題であって、個人的にはこちらも粉の風味が好きだった。やわらかさはまあ確かに。
食後に滝口悠生『水平線』を読み終えてしまう。読み終えてしまう、という言い方をしたくなるのは、長編小説を読んでいるときの、自分の生活のかたわらに常にその作品の世界がある感覚が続いていたので、それが区切られてしまうのがなんだかさみしく感じられるから。滝口さんの文章の語り口が、一度流れをうまくつかむと、そのままずっと読んでいたくなるようなタイプのものだからというのもある。硫黄島に住んでいた世代の人たちと、その人たちが本土に強制疎開させられたあとの現代の世代の人たちの語りのパートが交互に登場するのだけど、戦中戦後のそれぞれの時代の人たちの生活描写と思考の流れ、時に語り手もいつのまにか変わっているようなシームレスな文章の波に気がついたら乗っている。生きている人と死んでいるとおぼしき人が間接的に会話を交わすなかで、あなた、という呼びかけがこちらに向かってくるような心地になる。
墓に目玉があるわけでもないのに、見晴らしのいい場所に墓を建てようと思うのは、そこから死者たちが景色を眺めることを想像することを止められないからだ。
ここは死者側の人が淡々と語りながら、自分たちがそんなことを望んでいるのかわからないだろうに、と生者側の人のことを問い詰めているようにも、生者側の人が死者側の人の思いはわからない以上、かってにあちらを想像することでこちらの気持ちを宥めるような行為になっているかもしれないけれど、しかたがない、と諦めているような意味にもとれると感じた箇所。
考えながら、あまりにもざっくりしたつなげ方であるとは思いつつ戦中の島で生きていた人の話として寺尾紗穂さんの南洋について書かれた本を思い起こし、本棚を探したら『あのころのパラオをさがして』を見つけた。引き抜いて表紙を見たら岸政彦さんが帯文を寄せていた。同じところをぐるぐるしている気持ちになるけどこれも体系的な読書ということなのだろうか。流れでブルースカイの寺尾紗穂さんのアカウントを見たら、先日買った最新号の『暮しの手帖』誌面に滝口悠生さんとの対談が掲載されていることを知った。いやでもこれ別の流れで対談のことを知っていたから、最近買っていなかった『暮しの手帖』のこの号をあえて買ったのでは?とうっすら思いながら、帰ってきたら読もうと思いつつ出かける。
好きな薪釜焼きパン屋の間借り焼き菓子屋さんへ。早口言葉のようだ。売り切れてしまうかなとどきどきしていたけれど、複数日営業だったこともあり大丈夫だった。クッキー各種を複数枚と、スコーンを買い込む。
その後、この日限定のメニューがある好きな飲食店へ向かう途中で限定メニューの売り切れをストーリーで知った。便利な世の中だ。かなしいけれど通常メニューも好きなのでそのまま向かって、いつものラゲーライスと梅白湯ソーダ割りを頼んだ。パートナーが頼んでいたシソコーラもかなり好みで、あまり甘くない酸味が強めのノンアルコールバリエーションが豊富なお店のありがたさをかみしめる。

デパートで犬モチーフの置き物や服を見て、地下で少し安くなっていた桃を買い、帰りがけに本屋で『日常的実践のポイエティーク』を買って帰宅。ネイルを替え、前に買っておいた冷えた桃を切って食べた。新たに買った桃もこれと同じくらいおいしいといいが、と言い合う。

『暮しの手帖』の対談を読み、『あのころのパラオをさがして』を読み進めている。