人間になりたい、と言われ、それはどういうことかと何往復かやりとりを重ねた結果、この世のなかの「ふつう」に埋没できるような状態になりたい、という意味だったとわかったとき、そもそも第三者から見てある人がこの世のなかで「ふつう」っぽい人に見えていたとしても本人がどう捉えているかなんてわからないし、ひるがえってわたしは「ふつう」に見えているのか?そもそも「ふつう」でありたいのか?ということを考えていた。この世の中を「ふつう」の人間として生きるということはいまの世の中に適応できている、そこまで大きく生きることの困難を感じていないという意味なのだとしたら、そんな鈍感な生き方まっぴらごめんだね、と言いたい。言い切りたい、ちょっとかっこつけたい自分と、いやもう小市民でいいから心の平穏を得たいです、といっさい思ってないといったらうそになる自分ががっぷり組んでジャン・バルジャンとジャベール並みに常に対決している。
層をはがして食べるがりがりスコーンのおいしさ。
パンフレットを握ったまま駅中のお店で割引になっていたチーズの会計をしようとしたら、お店の人に『枯葉』おもしろかったですか、と尋ねられ、映画の続きの現実としてよくできすぎていた。「わたしはすごくよかったです、あなたは?」「よかったのでパンフレット買いました!」と一言二言会話を交わしたくなるような魅力がじわりじわりと染み出す映画。最近いろんな人が見ている、かわいい犬(とてもかわいい)が出ているらしい映画の監督が、以前見て印象に残っていた『希望のかなた』と同じということを先週末に知り、今週どこかで見られたらいいなと考えていたため、週末に向けての気の大きさで、えい!と駆け込めて良かった。映像としての構図や色づかい、挿入歌といった要素に惹かれたのはもちろん、背が低い方のキスを頬に受ける側である背が高い方のぎこちない動作や、登場人物のぎこちないウインク、テンポのズレたいまそれじゃないだろというスクリーンのこちらからツッコミをとばしたくなる会話群、困っている人に差し伸べられる適切だけれどウェットでない親切心に非常に引き込まれた。おとぎ話的展開と登場人物のなめらかでない言動があわさったとき、完全なる夢物語では終わらない余韻が残る、不思議な魅力に満ちいる。映像の作り込み方と登場人物らのスマートさとは正反対の行動に親しみがわいてしまう。しかしポケットから彼女の電話番号が書かれた紙を落としてしまってうろたえ(劇場中の人が心の中で「あ、あ〜〜!!」と叫ぶであろう名シーン、漫画のコマっぽいカット)彼女との再会の方法を考えた末、デート現場に張り続けるという愚直な方法を選ぶ男が放っておけない雰囲気を漂わせているのはわたしもわかるけど、流石に男が行動をなんにも変えないまま、女がほだされてしまう展開は無しだよ、と思っていたらそうはならず本当になによりでした。そして通奏低音としてたびたびラジオから流れるロシアのウクライナ侵攻ニュースは、彼女らの世界と私たちが生きる世界は地続きであることを淡々と伝える。作り手の意図としてもちろん物語の主軸ではないのかもしれないが、国境を接しているフィンランドが舞台の作品であれば当たり前にこれが日常であることを、当たり前のものとして受け止めること、その作品が好きであればなおさら身近に引き寄せて考えなくてはならない、と感じた。
アキ・カウリスマキ作品に流れるノスタルジーに惹かれてしまう理由は、もう観劇することはないだろう宝塚に傾倒していたとき、魅力として捉えていた一要素に近しいものを感じているからだとエンドロールで気づき、とても苦しい気持ちになる。
チーズをつついて出てきた生クリームをチーズを覆うあれこれにまとわり付かせて食べた。