8月11日

socotsu
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比較的早くから活動する日2日目、友人と気になっていたフォーのお店へ。

オムレツのバインミー パクチーやレタス、なますも挟んである 半分にカットされている

バゲットの横幅が普段よく食べるバインミーよりどっしりしており、具を受け止める包容力がたっぷりあるサイズ感だった。オムレツが具のバインミーも初めてだったけれどとても好きな味で、途中ピリッと辛いソースがかかっている部位の味の変化もよかった。

鶏肉のフォー、別添えのライム、パクチー、揚げパン

奥の小さい取り皿で半分こをするという荒技。あっさりとしたフォー単体も、もちっとみっしりした塩気のある揚げパンを汁につけて食べるのも好きだった。他のおつまみやデザートもおいしそうだしタップのビールも気になるなと後ろ髪をひかれつつ、いっぱいになったおなかを抱え、いつのまにか店先に出現した看板犬の黒豆柴に手の匂いをかがれながら再訪を誓う。

天然素材で編まれたうちわ

メニューの上に置かれていたうちわもかわいいかった。

きたときにのった電車をまた戻って次の目当ての台湾茶のお店へ。少し時間が早かったので駅前の図書館で一瞬涼んだあと、開店時刻ちょうどにお店の前にたどり着く。

台湾茶の茶器と器に注がれた台湾茶

お茶の名前をメモするのを完全に失念していて後悔。この時期おすすめのお茶の中から選んだという漠然とした記憶だけが残っている。お湯を注いだ急須?の中身を直接口をつける器に注がず、蓋のない注ぎ口がついた茶器に一旦中身を全部出さなければならないこと、その際お湯をなるべくこぼさないようにひっくり返すのにこつがいることをひさびさに思い出した。ほかの飲み物より、よい香りのあたたかい液体を飲んでいるなと感じる。

ナッツが色々入ったヌガーのようなお菓子 細長い6かたまりがさらにのっている

ナッツがたくさん入っている食べ物に弱い。

背後にいる2人連れの会話から聞こえてくるキーワードがとても興味深く、時々耳をそばだててしまった。相手方もおそらくこちらの会話からキーワードを拾って話を展開させているのだろうなと思う瞬間があり、ありがちではあるけれど、開かれた空間である程度の時間を過ごす際、今後全く関わり合いにならない可能性が高いそれぞれの人生を生きるそれぞれの人たちの生が、その瞬間少しだけまじわり交差していると感じられる、そのおもしろさ。ジェンダー、フェミニズムの視点、その空間デザインは、社会の設計は誰を対象としているのか、そこから取りこぼされている人たちの存在を透明化しないこと、そして2日連続で都知事選の話で盛り上がる(?)機会を得る。

道を引き返し、電車に乗って好きな本屋がある街へ。猫がいる初めましての本屋と、いつもの慣れた、とても好きな本屋をはしごした。最近個人店の、選書が好みの本屋にばかり足が向いていた人間は、昨日新宿の紀伊國屋に足を運んだ際、世の中にある本のバラエティゆたかさに、一生縁がなさそうなたくさんの本を前にびっくりしてしまったのだけれど、自分にとって最適化された本屋にばかり行ってしまうのも、現実世界の本屋バージョンエコチェンバー現象を生み出しているようで(この使い方が正しいのかは不明)、それはそれでよくない気がする、と思ったばかりだったのに、このありさまである。しかし似ているようで、それぞれの本屋の棚構成の違いを知り、あの本屋にもこの本屋にもあったな、という本を知ることで、自分にとっていま読みたい本はどれなのかが浮き彫りになってくる場合もあると思う。あれもこれもと心に抱え過ぎて、優先順位があやふやになり、結局どれにも手を伸ばせないという懊悩ターンもそれはそれで。

本屋の本棚と平台を見つめながら店内をぐるぐる永遠に回り続けてバターになって溶けそうだ、と思いながら店内を見渡したとき、同じように虎バタ状態のひとを見つけると、悩み続ける勇気をもらう。これは今鞄に入っている本で、この作家の人はこの新刊もいいけどこの前に出した本が最近文庫化していてこっちも、という話ができるのも、おすすめした本がレジに持っていく本の一冊に加えられるのもまたうれしい。

たこまつぺろんにょという青いいきもののはりぼて ピンクや黄色、緑やベージュのねこがいきものを取り巻いている

一旦帰宅し、去年に引き続きハリボテが飾られているお祭りを少しだけ楽しんで(人が多すぎるのでハリボテ位置からシュッと横入りして即退散)、いつものやさしい中華でお刺身サラダや分厚い皮の餃子、鶏とカシューナッツの炒めを食べた。

蟹と生海苔のスープ炒飯

本日の一等賞かもしれない。ご飯を崩しながら海苔のスープと一緒に食べる、はじめてのおいしさ。

なみすけボールチェーンキーホルダーの次回入荷は9月!(とても大事な情報)


『ノンバイナリー:30人が語るジェンダーとアイデンティティ』を読み終えた。バイナリー思考で社会が設計され、最適化され過ぎている。その社会に合わせた既存の表現、言葉の使い方を無意識にし続けることで、規範からはみ出して生きる人間について語る表現、言葉が見つけづらくなる。現実に生きている自分を語る言葉が見つからないということは、自分という人間が社会において透明化されてしまうことでもある。そんな自分という人間を語る言葉を見つけ出すのが困難な状況のなか、ここに集まっている30人の人たちのノンバイナリーとしての生を語る言葉は、身近に自分と同じような人間を、語る言葉をうまく見つけられない人たちの支えにどれだけなるだろうと希望を持って想像するし、私のような人間にとっても、現実では出会うことが難しい30人の人たちから親しく語りかけてもらっているようなありがたみを感じる一冊だった。『バトラー入門』と連続して『ノンバイナリー:30人が語るジェンダーとアイデンティティ』を読めてよかった。先日の藤高和輝さんと岩川ありささんのイベントでの「私の身体が愛せない時は世界のクソさが証明されている時」「個人の身体の話は自分を取り巻く世界の話でもある」を思い出しながら読んだ。

@socotsu
そこそこ