仕事後、午後から外出。天王洲アイルでファイナリスト展を見た。
時間が決まった上映の予定がうまく合わなかったり、狭いスペースの中に入ることが可能な人数が限られて列ができている展示もあり、3/5の鑑賞にとどまったけれど、特に原田裕規氏の映像作品に惹きつけられた。移民となった人々が他文化・他言語を獲得する過程のプロセスとして行なったであろう言語学習のシャドーウィング「声の重なり」と3人のデジタルヒューマンに作者の表情を同期させる「感情の重なり」の再現は、ポリフォニックな声・感情の響き方、違う時間や場所にいる属性の異なる人々の個が重なり合い、ずれていく様子を私たちに体験させる。多和田葉子『エクソフォニー』、ジュンパ・ラヒリ『別の場所で』etc.後天的に別の言語を獲得した人たちの、そのプロセスにまつわる個人的な語りを思い出す。もちろん自らの意思で別の言語を獲得しようと試みた人と、強制が発生した人とのその体験はまったく異なるものなので、一緒くたにはできない。
それぞれの多層な物語を感じさせつつ、見ている側の「わたし」という生についても立ち返させられるこの作品からは、必要に迫られ、いまようやく語られだした、潜在的な語り自体はあったのに語られる場を与えられてこなかった多く物語のうちのひとつである、という感覚、切実性をひしひしと感じた。同時に、その語りに多くの人の注目を集めることが可能となるような表現の手法にも目を見張る。船の舳先がくるりと弧を描いて元の場所に戻ってくるように仕向けられてしまう船自体ではなく、船が戻ってくる場所自体が自分なのだ、というような語りにはアースシーの物語の『影との戦い』(ゲド戦記)を思い出した。時間の都合で頭から通しでじっくりと見ることができなかったのが残念。
また、部分についての話になってしまうが、途中で登場する「おばけ」のエピソードでの「おばけ」という語の使われ方に、マキシーン・ホン・キングストンの『チャイナタウンの女武者』を思い出していた。中国系アメリカ人2世の娘である筆者が、1世の母や、母がかつて住んでいた国のルールとアメリカで生きのびるためのルールとの間で板挟みになっている自分の体験を生かしたと思しき物語のなかには「おばけ」がたくさん出てくるが、翻訳者の藤本和子が後書きで"原文の「ghost」という語で、中国人がその言葉を使ったものとして書かれている箇所と、そうすることがふさわしい箇所は、すべて「鬼」と訳した。"と書いている。中国にルーツがある人間の「ghost」は「鬼」、日本にルーツがある人間の「ghost」は「おばけ」となる、その訳のそれぞれの用いられ方に共通するものを感じた。それぞれの訳にふさわしいかたちを「おばけ」もまた取るのではないだろうか。
晩ごはんはパートナーの誕生日祝いで、前々から憧れていたフレンチへ。そこそこの価格帯のお店に大人になってから身銭を切って行くのは初めて。やや体がこわばっていたところ、入り口で迎えてもらった段階で、堅苦しくない気さくな、でも押し付けがましくない程よい距離感のサーヴィスのお店ということがわかり、一気に緊張がほぐれた。案内された席の近くの大きな花瓶にいけられた花の様子も、どこか銀座ウエストを彷彿とさせるような懐かしさがあり、ゆったりとした雰囲気の店内の内装も相まって、最終的に架空の実家のようにくつろいでしまった。
ホールの方、ひとりひとりのサーヴィスが素敵だったのだけれど、特にワインをセレクトしてくださったソムリエの方の、こちらの知識が豊富な可能性を想定したごく控えめな、でもプロとしての矜持に溢れた説明が本当に素敵で、最終的に完全にファンになってしまった。はるか昔に訪ねた執事喫茶で、最初と最後にお迎えとお見送りをしてくれる、ホテルマン引退後の第二の人生をあの場所で過ごしていると思しき、すてきなおじいさまたちのことを思い出している。こちらとの距離間、ユーモア、笑顔トータルでしみじみ感じ入ってしまうようなチャーミングさを醸し出す人たち。
桜エビとグリュイエールチーズのトースト、高級かっぱえびせんのような、というといろいろ失礼かもしれないが、火が入った香ばしい桜エビとグリュイエールチーズのこくが、濃厚で後を引くおいしさを生み出していた。のっけからワインが進んでしまう。軽めの白→重めの白→軽やかな赤、という順番で飲み、どれも美味しいけれど、最初の2杯は単体でも楽しめるしっかりとした味わい、赤は料理と一緒に味わうことでより引き立つおいしさだった。
サワラの燻製。燻製って藁焼きよりも軽めでスモーキーな香りと素材のレアな食感両方楽しめてお得だなリターンズ(直近のビストロでの鰯を思い出し)。シャリのない寿司、レア寄りのしめ鯖っぽいおいしさがある。下に敷いてあるやわらかな酸味のにんじんと大根の歯ごたえも、一緒に食べたときと個別で食べたとき、それぞれの味わい。
フランスパン。この手のパンを無限に食べていた頃を思い出しながら、さすがにあんなに食べられない、しかしやわらかさと水分量、皮のパリッと感の絶妙さよ…とバターをつけたり後から出てきたソースをぬぐったりしながらめちゃくちゃ食べてしまった。ちいかわの世界では食べ物が湧いてくるんだよ、という話をしたらタイミングよくおかわりパンが運ばれてくるわんこパンシステム。そして差し出された籠から自分でパンを取る仕様なので、"自分で選んで食べている"感があり、感というか目を背けられない事実なのだけど、手に取ったパンが温かいとやっぱりワァ〜!と気持ちが高まる。食べる。パンなくなる、の繰り返し、とても怖い。まんじゅうこわい。
野菜のエチュベ。スペシャリテのこれを絶対入れて欲しくて、コース前菜の内容を入れ替えてもらった。うっすら梅の風味が遠くから香ってくるような酸味、歯ごたえがしっかりめに残った野菜群。フレンチだとある程度やわらかい野菜が出てくるイメージがあったので、こんな毎日もりもり食べたくなるような味と食感の野菜が出てくる意外性。特に大根とセロリが好きだった。荻窪のとても好きな北京料理店のやさしい味の塩野菜炒めと同じ引き出しに入れたい。
前菜もう一皿のパテ。外側の油は外して食べる。パートナーとシェアでちょうどよい肉肉しさ。非常に食べ応えががある、しっかりした筋肉質?な固さのある赤身の部分と、中央○の濃厚な脂肪分のある部位とのバランスよ。
マナガツオ。バターベースだけど酸味も感じる、くどさがない、でも食べた瞬間おいしい!となるある程度の濃さの味付け。ソースをパンでぬぐってきれいにさらってしまった。付け合わせのほうれん草も好きだ。
リードボーのトリュフソース。やわらかおいしい。すごくうまくいった低温調理の鶏胸肉みたいなやわらかさ、という卑近なたとえをしてしまうが、切り口は脂身を感じさせないピンクのお肉なのに、バターとお肉を一緒に口に含んだようなじゅわっと噛むと脂が舌に溢れるような濃厚さがある。つけあわせのにんじんとかぶは前菜とは異なる柔らかさで、また違うおいしさ。
デザートのモンブラン。とても悩んでとりあえず2つ、追加できそうだったらもうひとつ、という魂胆のもと、選んだデザートのふたつのうちのひとつ。マロンシャンティイを思い出しつつ、あれとはまた違う、メレンゲのさっくり、やわらかい栗のクリームのあいだにごろっと時々のぞく栗の塊に当たるととても嬉しい。素朴なほっとするおいしさ。
モンブランの栗の塊に当たる部分が、ビターチョコレートのマルキーズの大きめのカカオニブのつぶだと思う。一口含んだ瞬間に押し寄せるがつんとした味にやられつつ、ビターチョコレートの濃厚さにどこかコーヒーの風味を感じたのはカカオニブ効果なのか。濃いチョコレートが好きな人は食べたほうがいい味。
ココナッツのシャルロット。これはいける、とパートナーと目を合わせて頷いたのちに追加❗️ココナッツのクリームを外側のじゅわっと水分量多めの生地がやさしく包んでいる。
生チョコレート濃厚さは言うまでもなく、軽めのメレンゲ系お菓子にあまり興味がない人間の心にもヒットする、ねちっとしたペーストの食感、アーモンドプードルの香りが広がるマカロンと、同じくナッティさがたまらないメレンゲだった。
春になったら白アスパラを探しに行きたい。