金川晋吾『いなくなっていない父』を読み終えた。読んでいる間、半分くらいまでずっと不思議な読み心地で、その「不思議」にはこれはどこにどのようにして着地する文章なんだろう、わからない、という浮遊感、一読者としてのよるべなさが多くを占めていたからなのだと思うが、どこに着地するか想像しながら読む本ではないことに途中で気がついた。本来ならもうちょっと刈り込んでいくのでは、と想像する文章の枝葉の部分がわさわさと茂っていて、いくらでも迷子になれる、あるいは蛇行している道をゆっくりたどっている。すっきりしない、何か理由があってやっているように見える、そうでないとやらないような、第三者から見て余計な行動ではと思えることにも特に伏線はないということは生きていればいくらでもあり、でもそういうごく個人的な細かくて伝わりづらい、要約するとこぼれおちてしまうような文章を読みたい/人の話を聞きたいターンだったため、なんだかよくわからないままかなりヒットしてしまい、金川さんは他に文章を書いていないのか、と検索してしまった。丘山さんが手元からカードをぼろぼろ落とす描写、金川さんのお父さんと金川さんとの間にある自撮りを「頼めばやってくれるだろう」というかたちのぼんやりした無自覚の前提に基づく信頼、そういうもの。あいまいさの受容、というとわかりやすすぎるだろうか。福祉という枠でのドキュメンタリーとして撮られ、しかしわかりやすい解釈の道筋をつけていない映像として提示されていたというNHKの番組がどのようなものだったか知りたくなった。金川さんの、血のつながりはただ血がつながっているという意味しか持たない、というような考え方にも好ましさを感じた。
他の誰かではなくて、目の前にいるこの人間が自分の父親であるということはたまたまであり、なぜそうなのかは説明できない。父と自分が一緒に写っている写真を見ているときには、自分の隣に写っている自分に似ている人が、なぜか自分の父親なのだということ、その説明のできなさ、無根拠さや無意味さのほうが前面にせり出してくる。似ているというのは不気味なことだと私は思う。
これを買って読むべき?そして植本一子『かなわない』にようやく戻るべきか?と思い図書館で取寄せ予約した。
個人的な細かくて伝わりづらい話が読みたいとはいいつつ、あまりに個人的な話であってもその人ひとりで自己完結していることは少なく、誰かとの関わりの中でその細かくて伝わりづらい話が発生している場合が多いため、その「誰か」のことを想像して居心地が悪くなってしまうことがある。その「誰か」に了承をとって書いていることなのか、また「誰か」に了承をとっていたとしてもこのエピソードははたして多くの人に向けて開かれ、その人たちに勝手に解釈されるストーリーとされてしまって本当によいものなのか、と我に返る瞬間が年々増えてきてしまい、私的な日記やエッセイを読みたいという気持ちと、これは商業的な出版物として刊行されてよいものなのか、リアリティショーとして人の人生をしゃぶりつくしているだけなのではというおそれが、読みたい・知りたいという欲望と衝突することも多い。多いのだけれど、書いたり、写真を撮ったり、映像に撮られたりした成果物としてのそれらと現実とのずれの発生に関する『いなくなっていない父』の記述を読み、そうした創作者の手を介した創作物が現実の人たちをそのまま写し取ったものであるという考え方自体が、あまりにエッセイや随筆における筆者の技術を軽んじるものではないか、という想像にいたった。別にいま初めてこのよくよく考えたら当たり前の考え方にたどり着いたわけではなく、たぶん何度目かの逡巡と抜け出しターンで、おいおまえ、幸田文の随筆を読んでいるときの状態を思い返してみなよ、と自分の肩を叩きたい。しかし現実の人間を登場させることで、虚構とを混同させやすくはあるだろうし、受け取る側として現実ベースの虚構だからただただおもしろく受け取って消費してOK、ということもないとは思っている。そもそも本当の話だから読みたいのではなくて、作者がある出来事をどのようにまなざし、どう記述するか、それを読んでおもしろがりたい。あなたの人生はおもしろくなくていい、退屈で幸せなものであっていい、という多和田葉子の『雲をつかむ話』のラストにかかる文章をいつも思い出す。現実の人の人生は、あなたのものも私のものも、おもしろくなくていい。

あまりにも友人からもらったこの皿を愛用しすぎて、乗っているいるパンの種類的に洒落になってることに気づかなかった。食パンをあまり食べない人間。しかしここの薪窯パン屋の食パンは唯一無二。

私はぬいぐるみを魂がある存在としてまったく扱っていないタイプの人間のはずなのだけど、道に落ちているととてもかなしくなってどぎまぎしてしまうのは落とした人の気持ちになっているだけではないと思うのでやっぱりそれらになんらかの霊的存在を認めているのかもしれない。はしっこに置いて、しばらくして戻ってきたら無くなっていたのでとても安心しつつ、まさか川に落ちてないよねとのぞいたりしていた。たぶん落ちてない。

空を飛んでいるっぽいポーズに見えてきた好きなイタリアのパン。かさかさしているが中身は詰まっている。

気になっていたレストラン、子どもの頃からことあるごとに家族とここに足を運びました、という人生が良かった。後からよくよく見返したらパッションフルーツやチェリーもかなり気になりフルーツだったはずなのだけど、プラムは私の好きな果物、と光って見えるシーズンなので迷わず注文してしまった。注文するとがーっとジューサーの音が店内に響くのが好き。

白桃もおいしいけどプラムの酸味がちょうどよい、ほかの果物も飲んでみたい。

オムライスって京都の小宝でしかここ数年食べてないなと気づく。あのドビソースの口の中にかなり残る濃厚な旨みと違って、甘みがほとんどないトマトの酸味が際立って感じられるケチャップライスに混ぜられたハムやたまねぎ、厚みのあるマッシュルームがおいしいオムライス。想像していた以上の大きさに思わず笑ってしまったエビフライや、和風ソースがドバドバの千切りキャベツのサラダ(かなり好き)もよかったけれど、個人的にMVPはこっちだった。トマトソース系がおいしいならばナポリタンも気になるよねと話していたのでまたきます。しかし添えてあるコールスローがあまりにも塩味がなくてたまげた。全体的に他のメニューも塩分控えめで、だからこそ食べつかれずかなり好みの味だけれど、この古き良きファミリーレストラン系の飲食店として、この味の薄さは結構レアなのでは。

スペシャリティコーヒーみたいな酸味強めビール、好きでした。