昨日はパンを食べていなかったので今日は朝からパンを食べました。(正確にはスコーンを食べていたので、小麦でできた固形物のなかでも砂糖とバターが多めのものを摂取していた)そして頂き物の大きい桃も。朝の果物は普段ヨーグルトをかけて食べるのだけれど、そのまま食べたいようなみずみずしくて甘い桃。
パンの写真しかなかった。
お昼前からの大雨と強風に怖気付くも、映画のチケットを買っていたため、撥水加工の服とラバーブーツでえいやと外へ。家から駅まではまあまあ濡れてしまったけれど、映画館最寄駅から映画館まではさっきまでの雨が嘘のようにおさまっており、ぶじ目的地に辿り着くことができた。
先日『エドワード・ヤンの恋愛時代』『ヤンヤン夏の思い出』を見たエドワード・ヤンの『台北ストーリー』(原題:青梅竹馬)はぼんやりとしたあらすじしか知らぬままで大丈夫かしらと思っていたけれどたいして問題はなく、しかし『エドワード・ヤンの恋愛時代』以上に男性ら、主にアリョン(主人公アジンの彼氏)のアジンへの煮え切らない態度に腹を立ててしまったり、彼の他者への暴力的な対応に、構図としての軽快さや彼の行動の意図を汲み取る以前に反射でぞっとしてしまうことが多く、アリョンにもいいところがあるのはわかるけどその面倒見のよさ、放っておけなさは主に男性相手でホモソの延長でしかないように思えてしまうよ〜〜と個人的には憎めなさより早くきっぱり別れてしまえという気持ちが強かった。対するアジンが他の2作に登場する女性陣よりおとなしめ(アリョンの頬を引っ叩きはするが、他の2作の勢いには劣る)だったのも大きい。また『ヤンヤン夏の思い出』は家族向け高級マンションの趣味のいい間取りにため息をついていたが、本作はアジンがひとりで住む(アリョンが越してくるのを期待している?)単身者あるいは子どもがいない大人が2人で住む用マンションの調度品のセンスのよい配置、またアジンのスーツやニットのシンプルかつ洗練された着こなしにいちいち見惚れていた。ティアドロップ型のサングラスの似合いっぷりよ!ビジュアル面を続けると、映像として、1980年代の台北の街並みやそこで生きる人たちを効果的、意図的に切り取ったショットはやはり印象的で、富士フィルムの一部が欠けたネオンを立ち入り禁止のマンションの屋上からアジンが見つめる構図はおそらくたくさんの人の目に焼きついていると思う。アジンの妹がつるんでいる若者たちにアジンも混じってからの場面、ナイトクラブでライターの火をつけながら踊り騒いだり、夜景をバックに車の間をすり抜けながら集団でバイクを走らせたり、誕生日ケーキを囲んで安い酒とスナック菓子でパーティーを開いたりする彼らの刹那的な享楽に身を任せる場面は、青春のきらめきのまぶしさというより危うさが全面に押し出されているように思え、見ていてどきどきして苦しくなった。『フロリダ・プロジェクト』で少女らが危険な遊びに身を投じる映像を見て、落ち込んだり腹が立ったりしたのと近しい感覚。
終映後、朝から蕎麦か冷麺の口になっていたので、映画館からほど近い飲食店目がけて歩き、無事冷麺を食べ、帰宅。しかし蕎麦も近々食べたい。
小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』を読み終えた。ウルフは家庭の天使を殺したいと言いつつ、彼女の作品はケアの精神によって貫かれていたよね、という導入を経て、その「ケア」はわかった気になって勝手に寄り添うものではなく、すぐに決めつけず思考を宙吊りにすること、考えを留保することも必要であるという「ネガティヴ・ケイパビリティ」に接続していく。現代の視点ではさまざまな問題点が山積みであることは理解しつつ、個人的にオールタイムベストに入れている『ジェイン・エア』という作品において、ジェインという主人公の個を貫く力にばかり重きを置き、評価する読み方をわたしもしてしまいがちだけれど、そこだけを取り上げるのならばローウッド学院でのヘレン・バーズとのやりとりはジェインの人生においてどのような意味があったかという視点を落としてしまうことにもつながるので、以下は非常に重要な読みだと感じた。
もしウルフにとって重要なのが、他者と共感する「多孔的」な女性的アイデンティティと男性的アイデンティティを併せ持つ両性具有的な性質を備えることであったとすれば、ブロンテの小説にも、ジェインに手を差し伸べるヘレンを通じて「多孔性」は描かれていたともいえる。ただ、ブロンテは「あえて」ジェインを多孔的な自己像をもつヒロインとして描かなかったのだ。
p.23-24
上記以外にも『ダロウェイ夫人』『星に仄めかされて』『美しい星』『灯台へ』『献灯使』等、読みかけで積んでいる、再開したい、新たに読みたい作品も多数取り上げられており、読むと読みたい本が増える悩ましい本であった。しかし上記にも登場する「両性具有的な性質」という表現についてはうまく読み解けず戸惑ってしまう場面もあった。バイナリーの観点で、片方のジェンダーに固有のものと社会的に認識されている「らしさ」を、その人が生まれたときに割り振られた性別(セックス)と揃えて捉えているという前提、そして両方の「らしさ」に関わる要素を備えている人に「両性具有的」(好ましいものとして)という表現が多用されていること、セックスとジェンダーが完全一致っぽく見えて、理解できなくもないけどその表現でいいのだろうか?とあまり腑に落ちていません。どういった表現を用いるかの差異、好みの話かもしれないが、わたしなら「両性具有的」とその「らしさ」をそれぞれの性に固有のものとして落ち着かせないで、その性質はその性別の固有のものである、という社会の振り分け方がまやかしで二元論的な捉え方である、と解体する方にいきたい、でもこれも「ジェンダーを増やす」by『バトラー入門』なのかな?このやり方だとすべての人は「両性具有的」でもあるのでは?ごちゃごちゃと引き続き考えつつ、岩波新書の『ケアの倫理』も読みます。