書かなくても覚えていられることは書かないでもよし、という気概でいたいけれど、とにかくぼくたちは何だかすべて忘れてしまうねを掲げて生きている(岡崎京子の作品は未読)ので、その選別が難しい。4ヶ月ぶりの歯の検診で歯をぴかぴかにしてもらう前にみかんをひとつ食べた、とか?歯医者に向かうまでにある、この1年くらいでできたと記憶している中華系飲食店の前に列ができていて驚いた。新たなニット用の毛糸が届き、うれしい悲鳴をあげている。

昨日読み終えた宮地尚子・村上靖彦『とまる、はずす、きえる』がすごくよくて、しかしどこがよかったかうまく言葉にしようとするとするりと逃げるような掴めなさがある。「とまる、はずす、きえる」というそれぞれのキーワードから話を展開していく、それぞれの高い専門性を前提とした、あちらこちらにゆれていく対談なので、その知識がないまま読んだところとて、という部分もあるのだけれど、もともと今日はこの話ができてよかったですね、というまとまりはそこまでなく流れていく話を追っていく読書は、このような会話運びがひととできたらいいなというもので、わたしに手繰り寄せるための力が足りないことは別にしても、とてもよかった。引用ばっかりではよくないと思いつつ、これ、という場所を拾っておきたい。
ベシャミンは、サバイブしていくような意味での過ぎ越しとは逆で、なくなってしまうもの/過ぎ越せなかったものに対するまなざしがすごく強かった人だと思うんです。ベンヤミンにとって何が消えてしまうのかというと、「アウラ」が一番典型的なものですが、人の個別性だったんだと思うんです。個人であったり、(レヴィナス的に言うと)その人の「顔」がなくなっていってしまうプロセスが近代には含まれていますよね。そこで、なくなっていってしまう人たちをどうひろい上げるか、すくいだすかっていうのが最晩年のベンヤミンの試みだったように思うんです。遺稿の「歴史の概念について」(『ベンヤミン・コレクション1』ちくま学芸文庫所収)では、ファシズムの暴力と進歩主義のなかで忘却されていく死者を想い起こす営みを「救済」と呼んでいます。それは震災に限らず、宮地さんがずっと取り組まれてきた環状島モデルの議論もそうですけど、声を出すことができないままに亡くなっていったり、埋もれていってしまう人はたくさんいて、そういう過ぎ去りに対してどう考えるかということを僕は考えていました。
p.128(村上)
この対談集を読んでベンヤミンが読みたくなったけど私に理解できるものなのか…
特にサバイバー・ギルトっていう言葉は、説明に使われるとみんな分かった気になるんだけど、実は多義的なものですよね。サバイバー・ギルトを持っている人に対して、「あなたはそんなに罪悪感を持たなくていいんですよ」と声をかけたい時にどうやったらその人を説得できるのかを考えると、その人が置かれていた社会構造の中で、「誰かを犠牲にしないと生き延びられない状況にあなたはいたんだよね」ってことを伝えなければいけないことが多い。そういう状況に置かれた時に、人間は自己保存本能によって、みっともないことや醜いことをしてしまうわけで、でもそれは生きることにおいてある意味当然のことなので、そのことも伝えないといけない。生き延びたことへの罪悪感と、それを正当化する気持ちと、もっと深いところで「生きるってどういうことなの」ということをサバイバーは考えさせられる。だから過ぎ越す!生き延びるということについて、先ほどの三つの分け方をしてみたんです。やり過ごして生き延びるか、お目こぼしにあって生き延びるか、他者を犠牲にして生き延びるか。他に、自分だけ助けられる少数者として選ばれるというようなこともありますね。
p.131(宮地)
この後のスライバー・ギルドという言葉についての箇所もとてもよい。「過ぎ越す」はp.46でトラウマを抱えた人が時間をどうにかしてやり過ごすことで生き延びることができる、という話をしていたときに村上さんが、その言葉を取り出して、ユダヤ教の「過越しの祭」ってありますね、と話し出したところから引っ張られているキーワード。
村上さんはわりと冒頭で、宮地さんから著作にジェンダーの視点が抜けている、と指摘されている。以降も村上さんが取り上げる哲学者・心理学者の論じかたをたびたびその視点でわたしは好かないので、と批判したり、それは西洋哲学の視点ですよね、とつっこんだりしていて、読んでいると圧倒的に宮地さんの側についてしまう。
うーん。それってあくまでヨーロッパの哲学・思想史の流れですよね。この前久しぶりにトニ・モリソンというアメリカの黒人女性の小説家が自分の作品について語った文章を読んだんです。(『「他者」の起源』集英社新書)。彼女は、声も上げられず文章も残せず殺されていった奴隷の人たちを、世代を追ってフィクションとして書いているんですよね。その人たちが乗り移る感じで書いているんです。過ぎ去っていく人、きえていってしまう人たちを目撃する仕方として、ベンヤミン的な方法もあるかもしれないし、トニ・モリソン的な方法もあるだろうし、きっと他にもいろんな形のきえていってしまうものを目撃するあり方があるんだろうな、と思って。
(中略)
きえていってしまう人たちを目撃している人もいるけど、きえていってしまう人たちを目撃している人を目撃している人もいますね。
p.150(宮地)
「きえていってしまう人たちを目撃している人を目撃している人」
『傷を愛せるか』を読んだときも思ったけど、やはりトラウマを負った人たちに向き合ってきた人たちで、その人たちがどうやったら生きのびられるか、単純に手を差し伸べるというのではなく、「見て」いる人たちの会話だ、と感じた。当たり前なのだろうが。「I witness you」の精神。それを「あなた」に伝えることで「あなた」が生き延びてくれたらいい、と願うこと。