いろいろやろうと思っていたことがほとんどできず、くたびれはてた日。しかし本来の自分の仕事はできないけど、頭のなかはわりと自由がきいたので、昨日見た映画のことをつらつらと考えていた。
主人公シュテファンが長期休暇で家を空ける準備のために冷蔵庫の中身を確かめるシーン、一人暮らし用の冷凍庫がついていない?ミニマムな冷蔵庫は、野菜室も扉が分離しておらず、一番下の引き出しがその役割を果たしているのだな、まだ食べられるものかどうか、タッパー(?)の中身を確認するために鼻先に近づけて嗅ぐ動作はみんなやるんだな、スープを友人らに持っていく際、取り分けた容器、おそらくパッキンがついていない紙のカップにプラスチックの蓋を被せるタイプのコンテナに十字に輪ゴムをかける様子、実は自然の景色よりも(料理がメインの映画ではないのだけれど)そういう主人公の暮らしぶりに興味を覚えていた。作ったものを男性の知人らで軽いピクニックよろしくはらっぱでシェアし、会話を交わす様子も。自分の家の冷蔵庫から出した材料で自分で料理を作るとき、それを食べているときだけ感じる、何かの輪郭を確かめている感覚があると思う。外食も中食も好きだし、ぜったいに毎日なにかを作らなきゃいけないとも思ってはいないけれど、栄養価の問題だけではなく、作って食べることが好きで、それはものすごく手の込んだものじゃなくてもいいんだな、と感じるとき。
森の景色は確かに良いのだが、自然のよさよ、とひたひたにひたるにはかなり身近な光景に見え、というか実家の近くの森っぽかったんだよね、ちゃんと見たら植っている植物は違うと思うのだけれど。鬱蒼と木がしげっている部分と土肌がむき出しの皆が行き交って踏み締めるので道になっている部分のあんばいとか。架空の苔の発表や苔という植物のしぶとさにはかなり興味を惹かれつつ。景色からの導入→自然についての思考、という物語だと思うので、登場人物らの気づきを視覚的にすっと自分の中に落とし込めるほど心の揺れを感じなかったこと、受け取り手としてのうつわのなさも感じるが、、、(視覚のみの体験へのコンプレックスループ)足元に生える苔の様子を気にかけた後、街に、自分の日常に視線を戻したとき、変化する視点、という想像はできるけれど、それはきっとそうなんだろうな、という目に見える記号を繋いでいったときのひとつの優等生的な答えであって、わたしが体感したことではない。薄い膜の向こうの感情をぼんやりと見ている。
そんなことを考えながら、晩ごはんはいつもの鶏むね肉をキャベツの上で蒸したやつです🐔鶏胸肉は昨日ブライン液につけておきました。自炊についてあれこれ書き連ねたけれど、たぶん平日はこれをずっと食べていたほうがいい。おなかの中を確かめながら。