朝ごはんは昨日買った大好きなパン屋のカントリーブレッド。固くて若干しんなりした噛みちぎるのに苦労するひきのぬれたおせんべいのようないい匂いの皮と、しっとりぺなっとした内側の生地。この皮が内側に水分をぎゅっと閉じ込めているのかと焼き上がるときのオーブンの中の状態に思いを馳せぐっと噛み締めながら食べた。
そろそろか、と重い腰を上げ、去年マンションの外壁工事で干せなかった梅干しを一年越しにザル(の上に敷いたクッキングシート)の上に並べた。今日から3日間梅を干します。ベランダに出す勇気はなかったので、日当たりのいい部屋の窓を少しあけて机の上に置いてみる。
帰ってきてからひっくり返した。1日1〜2回ひっくり返すといいらしい。すでにふっくらといいつらをしているけど、ここから水分が抜けていい塩梅になるのかな。すでに今年もやればよかったと後悔している、野菜直売所等に売っていた名前の書いてある系梅干し(はちみつ入りを許容しない)が好きな人間。来年はかならずや。
晩ごはんにも(豚しゃぶと切り干し大根を豆腐で和えて黒酢と塩とごま油で味付けしたもの)明日の弁当用にも(梅チキンラタトゥイユ)長谷川あかりレシピ、友人ともはや今日はどの長谷川あかりレシピを作るかをやりとりしている。パートナーの肉分量が少なかったことが食べ終わったあとの会話により明るみになり、えっ申告してよ!としょんぼりしたけど、こういう配分の料理だと思っておいしく食べたし、なんか豚少なくない?って申告するの感じ悪くない?と言われ、確かにそうだ…わたしが料理についてもう少し説明していれば…?と解決策方法が迷子になった。盛りつけの失敗ではあるのだが、このレシピ、一回混ぜてしまうと具の部位がうまく掴みにくいという難点があり、と認識しているのはわたしだけでしょうか。動物性タンパク質との付き合い方を考える日々、たぶん家の自炊で豚を使ったのって数ヶ月ぶりな気がする。チーズと卵と豆を主なタンパク源にしてしまいがちで、今日も上記に加えてストラッチャテッラとプラムを食べた。
『バトラー入門』をおそるおそる読み始めたら、読者に語りかけてくる親しげなくだけた文体に奇妙な懐かしさを覚えてしかたなく、ずっと考えていたけれどたぶんフランチェスカ・リアブロック(『ウイーツィ・バット』や『“少女神”第9号』)やその他YA翻訳文学に親友みたいに接してきた記憶が呼び起こされて共鳴しているんだと思う。
言い換えれば、ドラァグはバトラーやニュートンにとって「特殊なジェンダー・パフォーマンス」ではない。ドラァグは、世の中で展開されているジェンダーの「ものまね」である。しかし、ここでバトラーが述べているのは、「本当の」ジェンダーがあり、それに対して、それを模倣した「偽物の」ジェンダーがあるということではない、あらゆるジェンダーがドラァグと同様に「ものまね」である、ということだ。だから、ドラァグは「コピーのコピー」なのである。つまり、そもそも「ものまね」であるところの「自然に適合しているように見えるジェンダー」を大げさに「真似て」みせるパフォーマンス、それがドラァグである、と。バトラーやニュートンにとってドラァグが興味深いのは、私たちが「自然」と考えているジェンダーが「ものまね」の構造をもつことをまざまざとみせつけるパフォーマンスだからなんだ。
この部分で示されるパフォーマンスとしてのドラァグや「ジェンダー・パフォーマティヴ・モデル」の「演技」を例に取り上げた説明に宝塚の男役・娘役を思い出さずにはいられなくて、あらゆるジェンダーが「ものまね」ではないか、という気づきによる解放をわたしはずっと前から宝塚に見出していたんだけど、宝塚にそうやって揺さぶられたい、撹乱させてほしい、いやすでにしている、と思っている人たちって確かにファンのなかに一定数存在はしただろうが、全体の数からすれば本当に少数派だったんだろうな、ということを思い返してもう幾度めかわからないかなしみにくれている。成り立ちとして意図していたわけではなく「うっかり」なのはわかっていて、その「うっかり」に期待してしまったのが間違いなんだろうけれど、などと殊勝なふりをしつつ、本心では、宝塚が好きならジェンダーがパフォーマティヴなものであることなんて息を吸うようにわかるだろ?!くらいのことは思っています。というより「読み」はこちらにいつだって委ねられているのだから、かってに解釈することは今だって可能なんだけど、宝塚がもうそのような関わり合いを持ちたくない存在になってしまったことの問題をいつまでも引っ張り出しては嘆いている。
『バトラー入門』はとてもおもしろいので継続して楽しく興味深く読みます📖