昨日蚤の市で見かけたお内裏様とお雛様が欠けたひな人形らのことを思い出しながらひな祭り当日を迎える。といっても特にそれっぽいことをする予定なし。
パートナーが朝帰ってくるつもりで起床したら姿がなかったため、予定を再確認したところ、昼過ぎの勘違いであったことがわかった。その後、正確な時間を知ってから改めて想定していたより早めの帰宅時間連絡を受け(ややこしい文章だ)、好きな焼菓子屋のスコーンを買いに行こうか迷っていたけれど、たくさんパンを買ってきてくれたようだったので、予定を見送る。
買ってきた好きなおにぎり屋さんのおにぎり(すぐおにぎりを買う人間)と春の味の味噌汁のでお昼。菜の花って桜あじっぽい。ひなまつりまでの限定メニューらしいが、どのあたりがひなまつり要素か若干謎の薄焼きたまごで包んだ高菜としば漬けのおにぎり、焼きサバ、明太子を分けあう。
途中まで読んでいた本がどうにも合わず、そちらを放り出して手にとったところ、これはいま読みたかった本、と一章(一通?)読むたびに手をとめて考え込んでしまった往復書簡。積読本をすっ飛ばして読みたい本と遭遇できたときの思いがけないうれしさ。単行本の形で出版されたものが文庫になる際、書名を変えて売り出すという試みは個人的にはそこまで好きではないのだけれど、一通のタイトルから抜き出したこの直球の書名も気になった理由のひとつであること、まさに一通、一往復分だけでなく、全体を通じるテーマとしてひとが生きる上でのさびしさについて書かれた本であるとも感じたため、今回この本については「好きではない」という意見を翻してしまった。特に貫く必要もないが……豊かな往復書簡を読むたび、こんなふうに親しい人と話がしたい、と強く願う。エッセイを書くこと、エッセイにどこまで誰のことを書くかということ、子どものこと、自分が良かれと思ってやったことが相手の重荷ではないかと戸惑う話、さびしさとかなしみの違い、ひとりでいること、誰かと一緒に生きるときのかたちについて、「ひとりは、わるいものじゃないですね」、不在を通じて他者の存在について考えること。滝口さんと植本さんが手紙の向こうにある相手の存在を常に身近に感じながら言葉のやり取りをする、その細やかな手つきをじっと目を凝らして見つめることができる喜びと得難さを大事に懐に入れてしばらくあたためておきたい。
数々の書き留めておきたい話題や言葉のなか、私が非常に狭い範囲の交友関係や読書体験の中で生きているというのもあるのだろうが、男性で家事・育児を主体的にやっており、かつ子どもの生まれた際に振り分けられる性別や個体としての主体性について、日々手間ひまをかけて育てている自分と切り離しがたい存在とここまで距離をとって考え、細やかな言葉で表現するひとの文章をほとんど読んだことがなかったので、特に滝口さんの子どもに関しての記述は1ページ1ページ蒙を啓かれる思いで読んだ。わたしは子を育てたことがない立場のため、また育児経験者が読んだら違う思いが湧くのかもしれないと思いつつ、親という立場にありながら、子どもという存在を他者として捉えてあれこれと思いを馳せられるひとが書く文章に一読者として敬意と好感を持った。もちろんこのように文章にせずとも同じくらいの日々深く思考している子を持つ人たちは性別関係なくたくさんいるのだろうし、想像してはもう頭が下がるばかりなのだけれど。
具体的には、たとえばフェミニズムであるとかそれ以外のアクティビズムにおいて、しばしば怒りは重要な表現になり紐帯となりますが、怒りの感情がそれらの活動において前景化しているとき、その発言や主張にうまく距離がとれなかったり及び腰になることがままあって、その理由を自分の怒り耐性のなさに求めてしまうことがある、と気づきました。でも、それは問題の本質とは全然関係がない話で、すべきことは怒りの原因となる問題に対する態度や考えを持つことなんですよね。別に一緒に怒らなくちゃいけないというわけではないし、怒りの表現方法について違和感を持ったっていいんですが、それを理由にそこにある問題自体から遠ざかるべきではない。もちろん自分の属性が怒りを向けられる対象である場合もあって、その場合であっても考えるべきは怒りではなくそのもとにある問題で、そこについて考えずに、そんなに怒んないでよ、と言うのはやっぱり逃げ口上だと思う。怒らないで、と言う自由はもちろんあるけど、それは怒りの理由を考えなくていいという話ではなく、別の問題なんだよなーと。まだまだ思考訓練中という感じですが。(p.76)
これはお子さんのことではないのだけれど、親しく信頼がおける人にそこにある問題について考えて欲しい、と思うとき、テーマとしてどうしても伝え方が強くなってしまって、でもそのテーマ上、こちら側が「やさしく」伝えるのも何か違うと感じるとき、相手がこう思ってくれたらいいな、という内容だった。という表現も烏滸がましいのかもしれないが…
これは取り寄せ中なので届いたら読みます。
植本一子さんも以前から著書を気にしつつ、周辺を長年彷徨い続けていた気がする文筆家(エッセイスト)のひとり。寺尾紗穂さんの「孤独な惑星」というとても好きな歌の作詞を手がけた方でもある。方々から聞こえてくる本の感想から、自分の体験したこと、生活状況を著者の中でかなりつまびらかにするタイプの方と認識していたため、書く対象との距離の取り方がもしかしたら好みではないかもしれないと思っていたが、信頼できる複数人におすすめされたこと、今回この往復書簡でがらりと印象が変わるというわけではなくむしろ想像していた通りの部分も多かったけれど、同時に内省の仕方にかってに親近感をおぼえたり、抱えている感情の見つめ方・表現方法に引き込まれたため、誰かに宛てた書簡とは異なる、エッセイ・日記という形態の文章が気になることもあり、単著も近々読んでみたい。
私が原稿に誰かのことを書くことは、相手の存在を自分の人生の中で肯定することだと思っています。私はあなたのことをこう見ていますよ、感じていますよ、という一方的なことだけれど、書いて残したい。ここは消してほしいとか、書き直してほしいと言われてもそれはそれで構いません。そういうことも一緒にできる相手だと思うから、一種の責任を取ろうと思うのです。
この後に例外の存在として家族が挙げられ、しかし自分の中で変化が芽生えてきたとその理由についても続けて書かれていた。まさに一番身近な人について書くことこそ、相手の同意をうっかり忘れがちという意味で蔑ろにしてはいけないと考えている立場としては異なる意見だなと感じたけれど、書くことは相手の存在を肯定すること、という考え方はまったく意識したことがなく、けれど確かにそうかもしれないとはっとした。
母だって、私と、九つ歳の離れた兄を育てたときに、家族にも、社会にも、子どもに対しても思ったことはいろいろあるはずで、そういう言葉はどこへ行ってしまったのだろう、と思ったのです。できることならそれを知りたい。知りたいけれど、行動に移すかどうかはまだわかりません。
そう思えただけでも万々歳というか。離れていた時間が、やっとそういう場所まで連れて行ってくれたのだと。
お子さんに関する内容ももちろんだけれど、パートナーの方との関係性や、お母さんとの関係性についての文章により興味がある。と書きつつ滝口さんのお子さんが植本さんのいないところで「いっちゃん」と自分の名前を呼んだことを知って感極まってしまうエピソードには、私も似たような経験をしたことがあるため非常に心を寄せてしまった。「さびしさ」のかたちについて文章で表現してくれるからこそ、私は植本さんの「さびしさ」について知り、まったく同じ経験などしていないにも関わらず、そのかたちに親近感をおぼえてしまうけれど、文章という媒体を介し、たくさんの他者にその「さびしさ」をつまびらかにするということ自体は自分にはなじまない行為のため、それゆえその方法をとれる人との距離を遠く感じる、という相反する気持ちをわたし側の問題として抱えている。
パートナーのおみやげその1。明日から固くておせんべいのような香ばしいにおいの皮のおいしいパンとスープで生きていきます。
パートナーのおみやげその2。フォルムと短い毛の手触りが好き。横から見ても正面から見てもちょうどいい口もとのゆるやかな線の角度、おなかの毛の段々のつけ方にこだわりを感じる。