
甘くない栗入りスコーン。もさもさした甘くない焼菓子が好き。口の中の水分を奪われたいのか。
帰りがけに職場で、身体はどれくらいやわらかいほうがいいのか、運動前にどれくらいストレッチをすべきかという話になり、どれだけ前屈ができるか(床に手がつくか)を見せつけ合う謎の時間が発生した。最近てきとう太陽礼拝すらもさぼっているのでだいぶ固くなっている。しかしその流れで日々の運動の話になり、ジムに通う人と比べたら全然だけれど、自分でできる範囲の運動をやっている人のなかではかなり運動している方ではないか?しかしならなぜこの身体……と代謝の悪さか、消費する端から食べすぎているのか、はたまた、と自らの生活をかえりみる時間も到来した。おやつの量なのか。
晩ごはんはささみともやしの炒めを普通の日本酒で作り、昨日のたまねぎささみと合わせてもりもりと食べた。
岡真理氏の早稲田大学の講演会をオンラインで聴講した。現地の中継映像とじっくり向き合ってではなく、別のことをしながら耳で聴く、いつものPodcastと同じ若干不真面目なスタイルだったので、また時間をとって改めて聴きたい。これは宗教戦争ではなくイスラエルによるジェノサイドだ、という大前提、日本という国のこれまでのイスラエル・パレスチナとの関わり方に端を発する責任(第一次大戦は戦勝国としてイギリスによるパレスチナ占領を承認、第二次大戦はナチス・ドイツとの同盟国、現在はイスラエルとの包括的パートナーシップ)についての基本事項を忘れぬようここにも再度書き記しつつ、講義の終わりの方に取り上げていた「スペイシオサイド」という言葉が耳に残り、正確な意味をとるべく検索したところ、岡真理氏の紀要論文内での説明がヒットしたので引用する。
"パレスチナ難民2世で、ベイルートのアメリカン大学で教鞭をとる社会学者のサリ・ハナフィは、イスラエル・パレスチナの紛争において、パレスチナ人の身に起きている現実を「スペイシオサイド(空間的扼殺)」と名づけました。紛争の深刻さを死傷者の多い少ないで測るなら、パレスチナ人が被っている出来事はジェノサイドではありません。しかし、この紛争の深刻さを理解するには、死傷者の多寡という従来的な尺度とは異なる尺度が必要であるとハナフィは言います。それが、スペイシオサイドです。空間の扼殺とは単に、建造物や環境といった物理的空間の破壊だけを意味するのではありません。スペイシオサイドの「スペース/空間」とは、人間が人間らしく生きることを可能にするあらゆる生の条件のメタファーです。パレスチナではそれらがことごとく圧殺されています。
p.26
岡真理「文学とジャーナリズムの狭間で -難民的生から世界を考える」『早稲田現代文芸研究』13,15-28, 2023-03-13
耳だけで聴いてしまったのは、ところどころ映し出される写真に直視できないものが混じっていたらどうしようという恐れもあったから。もしかしたら現地で大画面で大勢の人と共にいるときに見るより、ひとりですぐ目の前の画面で目にした方がダメージが大きいかもしれない、という心理的予防、というのはずるいと思いつつ。周りに積極的に働きかけられないまま、マクドナルドやスターバックス等の名前が知れた飲食店のボイコットは続けているが、もう少し何かできることはある、たとえばデモに参加するとか、という焦りに駆られている。