昨日あれだけ食べたのに、夜苦しむかと思いきや普通にすやすやと寝て起きてしまった。自分の胃の拡張加減がこわい。
蒸してからトーストするとお煎餅のように香ばしくなるカンパーニュの皮に助けられる朝。流石に食後から就寝までの時間が普段通りだと短すぎたので、珍しくてっぺんを回るころまで起きていたせいでめちゃねむだった。
風がやたらと勢いよく吹き荒ぶ中、少し離れた建物間を何度か移動せねばならず、寒さはもちろん、そのたび髪の毛がぐちゃぐちゃになった。以前の頭皮に張り付いているくらいの短さだったらこんなふうにはならなかった気がするなと、じわじわと髪が伸びてきているのを感じる。
夕方急いで帰宅し、それでも温かいローカロリーな何かを作って食べてから予定に向かいたいというむちゃくちゃなスケジュールを白菜と豆腐のそぼろあん煮でクリア。前回足してみたいと思った生姜の千切りを、最初に鶏ひき肉と一緒に炒めてみたら想定していた風味がついた。すりおろしでもよかったかもしれない。
美容院に駆け込み、髪を切ってもらう。少しずつ伸ばしている最中だが、そろそろもさもさしていやになる最初のシーズンが到来するとの予告を受け、身構え出す。美容院内には少し前まではあまり姿を見せなかった、最近いらした若くて好奇心旺盛な猫がうろうろしており、ソファに横たわって狸寝入り(薄目があいてる)中のおなかを少しだけ撫でさせてもらったり、足元のにおいをふんふん嗅がれたりした。
先日映像を見てしみじみよかった、今日視聴期限の『長い正月』のことを思い返している。お隣さんも含めたひとつの家族、共同体の100年を100分で描く脚本と演出の巧みさ、派手ではないけれど記憶にはっきりと刻まれるようなエピソードの入れ込み方のあざやかさについて考えていたら、『グレンスミスの日記』@萩尾望都『ポーの一族』を思い出した。『山へ行く』や『メッセージ』等の短編集に収録されそうな物語の雰囲気もある。こうと言葉で明示されないまま、大晦日や正月の光景が繰り返され、はいここで時代が切り替わりましたよとあからさまな描写はなくとも、同じ空間で少しずつ人々が歳を重ね、ある老いた人はその空間、人生から静かに「退場」してゆき、またある人が新たに誕生してゆく様子から、時の経過が伝わる。退場するときは下手の暗がりに去っていく、誕生するときは上手の戸棚が存在するような空間から、という繰り返しは見ていればすぐ理解できる「お約束」なので、気がつけば、下手側に引き寄せられる暗雲立ち込める表情の人を見るたびに、舞台上の人たちと一緒にはらはらするようになる。大晦日、お正月を繰り返す、そこに生きているひとたちが生と死を繰り返す、その繰り返しにミュージカルのリプライズを聴いているときに近い気持ちになる。実際カラオケで歌を歌っている部分もあり、中島みゆきの『時代』はこの作品の趣旨にもあっており、そして名曲なのだが、これは歌唱のリプライズの話ではなく。この家族のひとりひとりや、そこで当然に行われている風習一から十まで見ていて自分の実生活になじむものではもちろんないのだけれど、あの家族や近所のひとたちがあの家に集まり、大晦日や正月のひとときを一緒に過ごす様子を見つめる時間はわたしにとって、不思議と心地よいものだった。みななにかしら、年末年始の思い出というものがあり、そういうあれこれを引っ張り出されるような作品でもある。
「反芻」も当然のようにまた繰り返しで、ある体験を頭のなかで繰り返しなぞることと楽しんでいるその瞬間と、わたしはいったいどちらのほうが好きなのかわからなくなる時がある。