
朝ごはんは先日の鎌倉で買ったバナナケーキ。若干日が経っているのもあり、なんとなくトーストしてみたところ、ふちがかりっとしてそのままとはまた違う好みの食感に。自分のおなかと向き合いつつ、割と賞味期限がすこしすぎているくらいなら果敢にチャレンジする気概あり。気概とは。
職場までの道で、私が知っている時代のギャル全盛期の格好をした高校生(背中の中頃〜腰近くまでのカラーリングしたウェーブヘア、ミニスカート、ルーズソックス)がふたり、リボンの柄違いのミニーのカチューシャをおそろいでつけて歩いており、ふたりの背中を見つめながら(これからふたりでディズニーランド行くの?その張り切りすぎてる格好めちゃよいね?!(ディズニーはボイコット対象だが…)特にテーマパークに行くのでなくてもその楽しそうな雰囲気に朝からわくわくさせてもらってありがとう!)と心の中が突如忙しなかった。わたしのなかのゆっきゅん的(??)部分の高まり。
晩ごはんはかたい木綿豆腐をスライスしてしらすとオリーブオイルをかけたもの、昨日作った熱した油をじゅっとかける塩もみ大根、もやしと鶏胸肉の炒め、高山なおみのなすのくったりしょうゆ炒め煮。くったりしょうゆ炒め煮はたっぷりつくるレシピなので明日の分もある。ちぎったにぼしの頭はその場で食べた。
田中みゆき『誰のためのアクセシビリティ?』を読み終えた。途中で、図書館から引き取ってきた、次読もうとしていた『発達障害者は〈擬態〉する』の著者、横道誠氏の名前が登場し、これはやはり続けて読むしかないのでは、という気持ちに。
言及したい箇所がありすぎるのだけれど、序盤の視覚に障害を持つ人のための音声描写をつけたダンス公演プロジェクトについての章は、観劇のアクセシビリティについて考えながら、演劇・ミュージカル鑑賞でも、身体の動きを言葉で表現したりおもしろがるのが苦手だと思いがちな人間の立ち位置から読んでいた。視覚に障害がある人と晴眼者両方が参加し、三年続けられたプロジェクトの一年目は3人の方が担当したそれぞれコンセプトが異なる3つの音声描写をラジオの電波によって公演中切り替えられるようにする試みで、舞台上のどこをどのように見るか、視点を切り替えてダンスを見るような楽しみを想像し、詩人の大崎清夏さんがテキストを担当した三年目の取り組みでは、下記の説明にひとつの音声描写から世界の広がりを想像した。
情報を伝えるのではなく、踊りと伴走しながら言葉でダンスという体験をつくる狙いがあった。
p.74
大崎さんは「言葉によってダンスを観ることは、言葉のダンスを観ること。つまりそれは、詩を観ることです。ダンスの展開の説明ではなく、あくまでも詩を詩として機能させるためには、まさにダンスの跳躍のような言葉の跳躍が必要です」と話した。
p.74-75
「その瞬間の動きを捉えるだけでなく、言葉によって喚起されたイメージが、水面に広がる波紋や音の長い残響のように、発せられてから時間的に長くとどまり広がるような感じ」と岡野さんは後に振り返っている
p.75
この次の章では、Be My Eyesという視覚障害がある人の視覚支援を行うアプリに追加搭載されたAIの機能を用いて、絵画に描かれているものをAIに描写してもらうという試みが紹介されている。AIの描写を起点とし、アートを介して他人との視点の違いを共有するパート、その振り返りパートのふたつで構成されており、前半のワークショップパートでは対象の絵画3つのうち、2つがここ数年気になりつつある横尾忠則の絵だったこと(Y字路は情報、『運命』は演劇、という捉え方)、後半ではAIの絵の認識から、AIが学習するデータ自体の偏りに触れつつ、対話の冒頭に仮説を迷いなく断言する存在としてのAIの効果、鑑賞時の権威を取り払ったパートナーにAIはなりうるか?という問いに対する議論が特に興味深かった。
全部触れてしまいそうになるので、この20年ほど観劇を趣味にしてきた人間としては、やはり演劇・ミュージカルの現場でのアクセシビリティについての話題がとても気になるなと、終盤の座談会での聞こえない演劇ファンの山崎さんの取り組みに心を寄せつつ、自分が聞こえる演劇ファンとして当たり前のものとしてきた仕組みや自分側がもっているエイブリズムについて思い当たり、うなだれている。(しかしいま東宝が性加害者として報道された演出家の疑惑について何も言及せぬまま、帝国劇場で上演する大型ミュージカルに当人を演出家として起用し続けている、という事実に演劇・ミュージカル鑑賞の意欲が大幅に削がれており、それに対処することと劇場という公共性が高い施設やそこで演劇・ミュージカルを上演する際のアクセシビリティ対応は並行して要求できるししていくべきなんだけど、そういう期待を持ち続ける存在としてアクションを起こすポジティブさが自分の中にほとんどない(でも本当はやるべき)というところで立ち尽くしている。この問題は夫婦別姓に対する距離感と自分の中で近い)
田中みゆきさんの、だからアクセシビリティを広めるのと同時に、当事者がコンテンツを作る流れが生まれなければ、という話に接続する下記の部分にも、蒙をひらかれた。
昨年、アメリカで調査をしていたときに、やっぱりエイブリズムがアクセシビリティの一番の敵だなと感じました。エイブリズムって、それこそ資本主義とか効率とか能力とか、健常者を中心にした考え方ですけど、結局、コンテンツにいくらアクセシビリティがついたところで、そこで伝えている価値観が健常者のものだったら、それだけでは全然アクセシブルとは言えないんじゃないかと。エイブリズムな考え方を広めるために字幕とか音声ガイドを付けてどうするんだって思ってしまう。
p.255
当事者が作ったコンテンツの話としては、4章に、ろう者の映画監督からの、聴者がつくった手話を用いる作品が評価される流れが続いていることを不均衡を指摘するくだりがある。それは文化の盗用である、という言葉から、まずろう者が使う日本手話が、日本語の手話版ではなくひとつの独立した言語であり、独立した言語を使う人たちは独立した文化を持っている、という知識、認識を、つい先日までの自分も含めて多くの聴者が持っていないことが問題である、という考え方に立ち返らなければならないと思う。私も『きらめく拍手の音』や『記憶する体』を読むまできちんと知ることがなくここまできてしまった。
他にもたくさん触れたい箇所があり、読んだ人と話がしたい気持ちでいっぱいです。誰かわたしと読書会を…
感想を書き終えてSNSを見たら、斎藤真理子さんが電話をたくさんうけて大変なことになっているっぽい投稿を目にし(???)と思って確認したら、ハン・ガンがノーベル賞を受賞していた!!ノーベル賞という権威に対して思うところがゼロと言ったら嘘になるけれど今とても興奮している。