朝食べたベーグルがおいしくてひっくりかえりかけた。好きなベーグル、サンドイッチもおいしいけど、単体で生地そのものを味わったときにもっと好きになるタイプです(わたしが)。根っからの小麦の生地好きだな…ということを再確認した。なにもつけずにそのままもりもりいける。食べた後しばらくバリバリのクラスト、クラムのぐいーっと抵抗感のあるひきを反芻してしまった。ラスイチだったのが悔やまれるけど「あともうちょっと食べたい」で常にとどめておくことが、ある食べものへの親しみを長く保つ秘訣かもしれません、としらばっくれる。またすぐにでも行きたい気持ちを、冷凍庫と相談よ、となだめている。
寺田倉庫で見た原田裕規さんの映像作品のことが忘れられず、過去の展示についても検索していた。テキストを翻案したのは作者、読み上げているのは作者が協力を依頼した日系アメリカ人で、作者はさらにその読み上げた声をシャドーイングする、デジタルヒューマンの表情はシャドーイングを実践する作者に同期されているが、デジタルヒューマンのモデルは読み上げた声の主とは異なる。ファイナリスト展と同じ手法で作られた作品について、非当事者がこのようなテーマを手掛けるあたってどのような注意が払われ、それがどのように工程に反映されているかということを知ることができてよかった。いまここにいない人の記憶、声が響くという意味でクリスチャン・ボルタンスキーの作品も思い出している。
ご本人のサイトがより詳しい。さっそく宮本常一『忘れられた日本人』と原田裕規『とるにたらない美術』を借りてきた。
上橋菜穂子さんが『忘れられた日本人』を好きな本としてあげているそうで、守り人シリーズは物語もだけれど、それと密接に絡み合ってくるあの世界の民族の風習、食べものの描写も好きだったなとなつかしく思い出した。同時に、ユリイカのル=グウィン特集で「ル=グウィンがフェミニズムとポリティカルコレクトネスにむかってしまったのは〜」とネガティヴ文脈で語っていたのを読んでからは離れていることも思い出して悲しくなる。『闇の守り人』を描いた人がなんで、という気持ちがずっとある。それは『王国のかぎ』『樹上のゆりかご』を書いた荻原規子さんにも感じていることなのだけれど。いわゆる、最近のネットミームでいうところの「思想が強い」ということを言いたかったんだろうな〜と想像している。「お気持ち」同様、その表現が生まれた文脈を想像すると非常にいやな気持ちになるし、自虐表現としても絶対に使いたくない。「思想が強い」については、思想を薄めたいという意図こそがもう思想の表れなのにと思うが、問題は作者の思想が物語の中から読み取れるか否かではなく、まず自分が書く物語になんらかの思想を入れ込むのは当然という前提に立った上で、その要素が物語の中でどう機能しているか、物語の構成・表現として浮き立つことなく織り込まれているかどうかなのだと考えている。なにを語るかはもちろんだけれど、同じくらいどう語るかということも重要だ。その上で個別の表現に好きか嫌いかは人間、当然あると思うので、そこを批判するのは自由だが、フェミニズムやポリティカルコレクトネスに留意した作品である、ということを批判の表現に用いるのは、大変な思いで道を切り拓いたル=グウィンを含む表現者の女性たちがいたからあなたたちはいま書けているのではないの?というよりあなたたちもまた後ろを歩く人たちのために道を切り拓いてきた人たちだと思っていたよ?とがっかり・あきれ・かなしみしかわいてこない。というだいぶ前の記憶を思い出し嘆きしてしまった。というか表現者としてもう少し繊細な批判ができたよね。いま読み返したらあの対談、何か印象が変わったりするのだろうか。
晩ごはんは塩サバと大根の酒蒸し、具を入れすぎてほぼ味噌煮の菜の花と豆腐と揚げの味噌汁。菜の花、桜餅の香りをいつも感じるけど、これはなんの成分を嗅ぎ取っているのだろう。具がもりもりの味噌汁を食べてこう、調整をはかろうとしています、いますが……