『どもる体』を読んで、他の著作も気になっていた伊藤亜紗氏の『手の倫理』を読んでおり、導入部分での「さわる」と「ふれる」の異なる用い方や、道徳と倫理の違いについての説明からかなり引き込まれている。また、近年よく見かける「多様性」という言葉の使われ方への懸念についての文章もよかった。「多様性」の多用ももちろん、その多用の懸念についての文章自体、さまざまな媒体・人からの発信を最近よく見かける気がするな、と思いつつ、この書籍が刊行されたのはコロナ禍と呼ばれていた(別に今もCOVID-19自体が消滅したわけではない)2020年なので、わたしの「最近見かける」には当てはまらないとは思うし、この「よく見かける」はもっと言ってくれ、であって「もうおなかいっぱいです」ではない。
人と人のあいだの多様性を強調することは、むしろこうした一人の人のなかの無限の可能性を見えにくくしてしまう危険性を持っています。このことは、裏を返せば、「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある」という前提で人と接する必要があるということでしょう。それは配慮というよりむしろ敬意の問題です。この人は、いま自分に見えているのとは違う顔を持っているのかもしれない。この人は、変わるのかもしれない。変身するのかもしれない。いつでも「思っていたのと違うかもしれない」可能性を確保しておくことこそ、重要なのではないかと思います。
"実際に関わることで意外な側面に出会うという意味での「ふれる/さわる」"を念頭においた文章を読み、一方的にポジティブな/ネガティヴな情報ばかり仕入れ、直接打ち解けあって話す機会がない相手ほど、あるいはすでに「ふれあって」いるような親しい人であっても(だからこそ)、このような人だろう、という構えをもって関わってしまうことによって、その相手への敬意を失いかけていたのかもしれない、と考え込む。親しい人、親しくなりたい人とは「わたしはあなたについてわかっている」と思っていたほうが「あなたはこういうひとだよね」というふうに会話のテンポがよく、場が和みやすいし、相手も「わかってもらえている」という安心感を得やすいのでは、というひとつの確立された方法をなぞってしまいがちで、でも(わたしはこういうふうにこの人を捉えていたけど、それは本当なのか?)と目の前の人ではなく、自分の固定観念のほうを疑ってみる、ということをもう少し意識してやっていきたい。こうやって書くとそこまでたいしたことがないこと、ありふれたことに思えるけれど、自分の思考のくせ、跡がとれない生活のドッグイヤーをのばすのはたやすいことではないなと想像する。でも、可能な限り「〜かもしれない」を念頭に置いて他者と接したい、その時間を長く伸ばしていきたい。「〜」に入るものが具体的に想像できなかったとしても。
クッキーと豆源の梅落花をおやつに🥜
ホタルイカの下処理とシュウマイを包むの、台所仕事を結構した気になる。ホタルイカはセロリ・パクチーとナンプラーで炒めた。炒めたセロリの食感が結構好きという最近の発見。シュウマイは前回の残りの皮で包んだのだけど、餡が余って皮を追加で買い、そしてその皮がまた余った。これは無限ループの予感がする。
仕事、そこそこやりたいことをやっているとは思うけれど、本を読んだり料理をしたりする生活部分をまっとうできる時間と気力体力をとっておきたい人間は、仕事のボリュームが増えて残業してもらうことになると思うけど頑張ってほしいなどと言われると腰が引けてしまう、しまうが、やりたいことをできるようになるためには、もう少しそこに時間をかけるべきなのかな、という気もしており、もろもろの比重についてぐだぐだと悩んでいる。しかしたぶん悩んでいる間に忙しさに取り込まれる。