前々から少しずつ読んでいた岡真理『ガザに地下鉄が走る日』をなんとか読み終えた。岡真理氏の文章は、パレスチナの、ガザの人々へのイスラエルの非道な行いは今に始まった事ではない、「ナクバ」以降ずっと続いていることなのだという歴史的経緯を淡々と伝えるのと同時に、亡くなった瞬間だけでなく、それ以前にそこにある人が生きていた様子を、個別の生活を送る一人一人の身に起こったこととして書き記すことによって、彼ら・彼女らは「パレスチナの名もなき人たち」という漠然としたかたまりではないということをも私たち読者に繰り返し指し示す。
「パレスチナ人」としての自らの生を選び取った人たちの個別の生がくっきりと立ち上がってくるような筆致によって「知る」こと、それこそが岡真理氏が『記憶/物語』でも記していた、「他者の〈出来事〉を分有すること」につながる行為ではないかと感じた。ある人物の身に降りかかった出来事が他者によって文章として綴られること、そしてそれをまた別の他者が読むこと。
関口涼子『カタストロフ前夜』や『ベイルート961時間』のことも思い返している。
晩ごはんに根菜がごつい豚汁をもりもり食べた。明日の弁当もこれです。