平日の夜にまるで買ったアジを三枚おろしにしてつみれ汁を作るというのは、わたしの一日のそれぞれの日課の時間配分としては、もう日々の炊事の範囲を超えた完全な娯楽だなと思いながら、長ネギと大葉を入れすぎていまいちまとまりが悪い、ぼろっとしただんごをゆっくり落としてゆれるだし汁の水面を観察していた。この時期安くなる大葉のパックを買って(200円台から300円台に推移はしていた)、惜しみなく様々な料理にわさわさ入れるのが好きだ。パートナーには筍と豆腐とわかめの炊きあわせを作ってもらう。晩ごはんを週一回はパートナーと一品ずつ分担するの、いろんな意味でよい習慣だなと思っているが、そんなに広い台所ではないのでコンロとまな板を使用するタイミング、面積配分がむずかしいときもある(それ以外の日は基本別々に食べている)。そして本当は筍ごはんを作ってもらいたかったが、ここ最近の食生活を思い出し自制した。今季あと一回くらい筍ごはんが食べたい。ぼろっとした味はおいしいつみれと、味薄い王選手権の炊きあわせ、カロリーコントロール的な意味でも、こういうのを日々食べたいものの決定版ではあったのだけれど。
世の中の規範をかなり内面化しているくせに、それに抗ったほうが長い目で見て自分や他の人が生きやすい世の中を形成する一助になると思っているため、意識して流されやすいほうではなく自分が無意識に進んでいける方とは逆をあえて選択しようとしてかなり苦しい、という生き方についてもうちょっと上手いやり方はないのだろうかと時々考えるけれど、しんどいけどやめるわけにはいかないし、このしんどさは背負っていくべきものだとも思う。わたしだけが、とか思ってはいなくて、ただそんなにできてないくせに、だからこそひとりで勝手に追い詰められた気分になるのをやめたい。