きっと「こうだったら大変だな」を大げさに見積もってるだけだよね?と昨日の予報を頭の端っこに追いやりつつカーテンを開けたところ、ちらつく白いものの姿にいやいやまじかよと呆然とした朝。しかしえーっと思っているうちに雪は止んでいたようで、外を歩く人々の動向を伺いつつ念のため折りたたみ傘を片手に出勤。ひらけている場所では不要だったけれど、樹木が多めのエリアを通るときだけ、密集した枝葉に重たくたまった水分が時折落ちてきて、想定していなかったタイミングで折りたたみパワーが発揮された。
パンを食べすぎる🍞🥖
さまざまな雪の集まり方☃️🌨️
天候に翻弄されつつ、仕事上の大きな懸案事項がひとつ片づき肩の荷が降りた日だった。
夜はSNSでお知り合いになった方と初めてお会いするという非常に楽しみな予定があったためそわそわしていた。夕方から再びという予報もあった雨も雪も降らずなによりだった。
10代の頃から趣味を通じてある程度文字のみのやりとりで交流を深めた方と直接会って話をするという体験をたびたびし、そのときの経験はいまも自分のベースにあるなと折に触れて思い返す。ひと回り以上年上のお姉さん方に気にかけてもらい、しかしあのころの恩を自分は別の誰かに返せているのか・返したいという思いがずっとある。また、20代で趣味をきっかけに知り合った後、長い時間をかけ、政治の話も含めて幅広いテーマを共有できるような仲になった友人もいる。後者はかなりのレアケースで、自分の性質上、一点集中のかなり激しい趣味に関する、近くて遠いだれかへの強い憧憬をフックにした瞬発力の高い会話から、もっと自分の身近な生活にまつわること、あるいは趣味を通じて気づき考えた、日常的に抱えている自分の思いを打ち明けるようなひそやかな会話へのスムーズな移行・あるいは往復はとても困難なことのように思え、ほとんど実行にいたれなかった。もちろん相手のタイミングもあるだろうし、一方で自分が相手とどのような話をしたいか、できるかを決めつけてしまっていただけだったのかなとも思う。わたしと似たようなきっかけで趣味を通じて得た多くの友人と幅広い話題を共有するのが当然というひともたくさんいるだろうと想像する。
それゆえに、一点集中の趣味を通じてではない出会い方をした人と会うとき、もちろん会って話したいことがいろいろあると期待し、インターネットにひそむもぐらことわたしは土の中から這い出るのだけれど、這い出た後に、えーっとこの後どうしたらいいんだっけ?と毎回呆然としてしまうのだった。
しかし実際会って話をすると、人間同士の会話は相手がいて成り立つのだから、頭の中でシミュレーションできなくて当然❗️と自分のなかのもぐらの精(これ完全にびわ原さんスタンプで再生されている)がニコニコと囁いてきたりもする。これからも悩むだろうし、悩むことが無駄とは思っていないけれど、どう転ぶかわからない不確定要素をおもしろがったり、相手をもっと信頼したり、身の丈以上にかっこつけたくなってから回るくせを自覚してもう少しどうにかしたい。「もう少しどうにかする」あまりにもあいまいでざっくりとした自分の混沌かげんを表す適当な言葉だな。
お会いしたかった方とはおいしいカレーを食べながら、最近読んで好きだった本や見た映画や好きなグルテンの話をし、ゆるやかに、けれど尽きない話にどんどん時間が過ぎていくのにびっくりした。もちろんすべてを想像できているわけではなく、これは言葉に重きを置きすぎなのかもしれないけれど、文章でのやりとりを通じて受けた印象が実際会って大きくずれることってよい意味であまりないと感じていて、会うと会いたいと思う文章でのやりとりを経た方のチャーミングさを再確認することが多い。などと書くとその言葉が悪い意味で自分に返ってくるかもしれないが…
お話しできてよかったなと思い返すことはたくさんありつつも、梨木さんの『春になったら苺を摘みに』の話は個人的に特別うれしく、うっかり握手を求めて手を差し出しそうになってしまった(気持ちのはみ出し)。彼女のエッセイの、ある体験をきっかけにした思考の流れをそのとき見えていた景色の描写を含め、丹念に過不足なく追うような文体、途中で考えが一変するまでの経過を記述する深い内省、また自分にとって大切かつさまざまな局面で助けられてきた人の勇気ある行動が、別の誰かにとっては心安らぐものではないという話を、さまざまな人の思いを想像しつつ、けれどこれはあくまで自分が自分として考えた範囲のことなので、と個として佇む姿が立ち現れてくる表現に非常に影響を受けていることを再確認した(自分に模倣可能な力があるという話ではない)。
なんだか自分の話ばかりになってしまっているな…と我が身をかえりみつつ、いつもパートナー、好きな人たち(友人)のすてきだと感じた部分をどこまで書いてOKなのか悩み、結局自分の話ばかりになってしまう。やはりどこにも公開しない日記もつけるしかない。
ひさびさにこのもったりしたタイプのカレーにナンをつけて食べた。黄色い海老のカレーの方がとろみがありつつ液体、緑のほうれん草と鶏肉のカレーの方がさらにもったりして固形に近い。両方おいしかったのだけれど、海老の方はときどき生姜っぽいスパイシーな塊にあたり、そのやわめの刺激が好きだった。
大ボリュームのチーズナン❗️好きなものセットです。
好きな本屋の文庫本の平台に並んでいる本がとてもよく、悩みに悩んでこの2冊を買った。
以前から左川ちかの詩は気になっていたのだけど全集の値段にひるんでいたので、お求めやすい文庫版に飛びついてしまった。川崎賢子ってあの尾崎翠と宝塚研究をされているあの川崎賢子氏だよね?という驚きも。『ともしい日の記念』は確か筑摩書房のSNSアカウント投稿で知って興味があるなと記憶に留めていた。ぱらぱらとめくっただけで、それぞれの作家の文章の強度、輝きにのまれてしまう。こういうときに使う「強度」ってなんのことだろうと他人事のように思うけど、台座と石がこれ以上ないバランスで組み合わさった指輪を讃えるときにも使うだろうか。