以前京都の하하하(ははは)という韓国料理店で食べた、酸味が効いたキムチが忘れられず、アミノ酸等の旨み調味料が使われていないキムチを求めて新大久保の韓国食材店へ。ここならきっとと思った店の、その店で作っているメイン商品は日本向けに旨み調味料が使われているものばかりで肩を落としていたところ、直輸入で、これはもしかしたらいけるかも、という成分のものを発見し購入。ついでに気になっていたタイのお菓子が購入できるお店にも立ち寄り、バナナケーキ、マンゴーともち米セットを入手。ワールドマーケットにもさらに寄り、スパイス類や気になる豆を見つつ、物量に臆して諦めるも、安売りしていたデーツ(これも大容量パックではある)と乾燥カモミールを手にとりレジへ。珍しい食材の数々に小旅行をした気持ちになりながら帰宅し、ようやく食べたもち米とマンゴーは、甘いお米ってどうだろうか?!という懸念をいい意味で裏切るあまじょっぱさともちもちとした食感がとても好みで、むしろもち米だけでもまた買いたくなっている。

お店の人に袖のピロピロを心配されたけど仕様です。

そして目論んでいた一人生春巻きパーティーを決行し、本日のごはんタイムを早々に終了。キムチはかなり酸っぱく期待していた味でうれしい。
朝から編みつつ読んでいたシリーズケアをひらくの『安全に狂う方法』は、このペースではまずい、と今日中に読み終えるべく、フィットボクシング後は編む手を止めて本だけに集中し、無事読み終えた。
『安全に狂う方法』は、敦盛の最期を音読しつみたり、石牟礼道子そろそろ読まなくちゃと思ったり、惹かれる部分もあれこれありつつ、筆者の男女二元論、性愛至上主義、母性愛についての考え方にかなり合わない部分を感じながら読み進めていたところ、友人のトランス女性との交流について触れながら語られるトランスジェンダー認識にかなり問題があるように読め、読みすすめるのがとてもつらくなってしまったが、わたしの認識に誤解があるかもしれない、となんとか読み通した。結果としてやっぱりだめでした。しかし検索してもこの記述に疑義を呈している人をほとんど見かけない気がしており、ここに引っかかった方は途中で読むのを止めてしまったのかもしれないかな、と想像している。
ここから、トランスジェンダーへの偏見が含まれる本の内容に触れます。
p.139に筆者の友人の「わたし、トランスはアディクションだったと思う」という発言がある。これ自体は当事者の自己認識なので、それじたいが否定されるべきとは思わない。しかし筆者はその発言にのっかり、自分も似たような考えを持っていたことを示す。トランスジェンダーを男女二元論に囚われているような人たちとみなしたり、友人がどの性別に見えるかを気にしていることを指して、それはアディクションである、と表現する。
そしてこの本の中で筆者はアディクションをこのように定義している。
アディクションとは最初の傷に対する二次障害である
言葉にできない傷がそこにあると指し示す行為である
苦しさに対するセルフ緩和ケアである
寄りかかるものが何もないときに、寄りかかることができる架空の壁である一人の自分がもっと一人になることによって寂しさを忘れる手段である
愛の世界への退避である
戻って一人で泣ける場である生きたいという叫びである消えたいという願望である一種の復讐である
消極的に死のうとすることである
自殺の回避である
消極的に死ぬことで、生きたいという願望を守ることである
p.157
友人が性別適合手術を選択せず、ホルモン治療のみである状態を、本人が気にしている、でもわたしはその状態でも彼女は彼女として素敵であるからいいと思っているのに、というようなことをいい、しかしその上で「女」の定義について独自の見解を示す。
子宮は女だけの持ち物だ。womanとはwombを持つ者だ。そういう意味では誰も後天的に女にはなれない。それを承知でトランスをする。それは別の性に憧れたというより、自分の生まれ持ったかたちを、とことん嫌っている、そういう理由ではないだろうか。
p.164
こう書くことがトランスジェンダー当事者への偏見でなくてなんなのだろうか? 私には当事者の友人もいるし偏見はないよ?といういつものやり口では?
本の冒頭では、刑法の罰が与えられる依存症を発動させる物質の話からコカインとアルコールを取り上げ、前者にはイメージとして反社会的なものが与えられ、所持しているだけで法的に処罰されるが、後者は持っているだけでは罪にならない、これはイメージに課せられた罰であり、それを見るとその社会が何を差別したいかが見える、と語られたため、これからアディクションと社会の接続の話がはじまると思っていたので、どんどん個人の内側の話になってきた流れにおや?と首を傾げつつこれはこれで興味深いかも?と思っていたところ、上記の差別的な考え方に基づく記述があり、かなり残念だった。