7月3日

socotsu
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公開:2024/7/3

今日は二日ぶりに朝ごはんにパンを食べられてうれしかった、と書くとどれだけパンが好きなのかと思われるかもしれないけど、ここを読んでいる人は私がどれだけパンが好きかはわかっているだろう。マンドラゴラのような手脚がうねうねとついたイタリアのパンのはしっこと、同じくまるいイタリアのパンの切れはし。あんまりトーストしないほうが胃によかったのか?と思いながら噛み締めた。

夜は豆腐麺にあれこれ乗せたもの。

ろばが側面に彫ってある器

勘のいい人はこれが複数サイズあるセットもので、ほかの器に犬、猫、雄鶏が彫ってあると想像するかもしれません。かの有名な音楽隊。

豆腐麺の上にうずらのたまご、オクラと大根の細切り、きゅうり・ハムの細切りが乗っている

豆腐麺の上にいろいろ。

カットしたスイカ

うちではスイカを食べる人がひとりしかいないので、カットスイカをはしからこのように小さく切って複数日に分けて食べる。

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの:情熱の政治学』を読んだときも思ったけど、黒人女性にとって、フェミニズムと一言にいっても今あなたが語っている「フェミニズム」は白人女性による体験のみが女性としての体験に組み入れられているものではないのか、と疑ってかかることは当たり前だし、それは西洋による「ヒト」の発明により定義された「人間」からは、宗教の教義に従って生きることができない人間や、理性的・政治的・経済的人間でないとされる、経済的弱者・貧困の立場にある人は除外されていることに気づくこと(先日視聴した「デコロニアル・ラブについて」より)、またフランス革命による人権宣言、といったときに、そこでいわれる「市民」に女性が含まれていなかったことをオランプ・ド・グージュが指摘していたことを知ることなど、一見多くの人間がよく生きる権利に寄与するように見えていた運動・考え方から排除されている人たちがいる/いた、さまざまな事例にも結びつくのではないだろうか。いまフェミニズムを語るうえで(そうでなくとも、だけれど)インターセクショナリティの視点が欠かせないことを思えば、ベル・フックスの著作は必読書のひとつだと思っている。

フレイレの批判的教育学を自らのものとして取り入れながら、その著作のなかに性差別的表現が含まれることを指摘し、本人へ質問する機会を持ったこと(そしてフレイレが彼女の質問に積極的に応答し、対話が可能だったこと)、ベル・フックスの授業を受けた学生の気づきを例に取り上げ、新しい認識方法を獲得したときに、周囲の環境や人々が違った目で見え、居心地の悪さを感じるようになる、というエピソード、また教員と学生双方向の議論が闊達な、フラットなスタイルの授業であっても、教員の特権性について批判し、「預金型教育」から距離を置こうとするベル・フックスだからこそ、教員である自身の持つ権力を透明化する気はまったくない、むしろ彼女自身が権力を恐れながら、権力の使い方を模索しようとしているエピソードが特に印象に残った。というか印象に残るエピソードだらけでこんなにぎゅっと詰まった、要約がきびしい本はあるか?という感想を抱いている。

私がばてている間に外の様子が常時プールサイドになってしまって、でも水着を着て職場には行けず、という厳しい状況のなか、日々のハードルをがんがんにさげて、そこそこでいくしかない。

@socotsu
そこそこ/日記のタイトルは川柳