7月29日

socotsu
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公開:2024/7/29

朝ごはんにカリカリスコーン。トッピングされたチーズが香ばしい。

チーズが入ったスコーンがパンの形の皿の上にのっている

連日気温の話ばっかりしたくないのだが、今朝は外に出た瞬間の熱気が全然違っていて、もうこれ以上盛り上がるのはやめてくれ、と折りたたみ日傘の骨を展開させながら顔がこわばった。まだ7月なんだって。8月はどうなってしまうんだろう。来月旅行で訪ねる地域の涼しさを祈る。

昨日会話の流れで岸政彦,柴崎友香『大阪』の名前をあげ、この土地に生まれついた人間であったらよかった、と、生まれてついていたらいまここに住んでいなかっただろう、は同居するという感情はわかる気がしたという話をしたけれど、生まれ育った故郷に対する親しみのようなものは多少はあっても、それはあくまで実家がある場所、であって、ある程度頻度高く帰って見たい原風景のようなものや、足を運びたいお店という場所がわたしにはほとんど存在せず、それがエッセイで語られる岸さんの、よその土地への、ここに生まれついていたら、というない記憶を欲するような思いに結びついているのかもしれない。私は岸さんにとっての大阪のように思えるような場所に今も住んではいないのだけれど。そんなふうに書きながら、実家に向かう電車の窓から次第に田んぼしか見えなくなっていく景色のことを思い出していて、でもそれがものすごく慕わしいものかというとまったくそうではないな、といまの一瞬で脇によけてしまった。親世代が新しく開かれた場所に土地と家を買って移り住んだだけの人間は、そこでできるお米で生計を立てている、というようなその田んぼと接続する暮らしのありかたというものがなかったので。

藤高和輝『バトラー入門』を読み終えた。バトラーのいう「ジェンダーを増やす」とは、これから新たにジェンダーを生み出そうという話ではなく、いますでにいる、男らしいシスヘテロ男性や女らしいシスヘテロ女性以外を生きる人たちの生のあり方を「ジェンダー」として可視化させていくこと、規範をかき乱すことで、その実践のひとつとして「わたしたち」「女たち」と口にするとき、それが本当に一枚岩であるかどうか疑ってかかること、その「たち」に集約されずに他者とされてしまう「わたし」「女」とは誰か、ということを考えることも含まれている、と受け取った。一枚岩であるような主語やカテゴリーを安易に用いることへの疑いの眼差しは「クィア」という言葉にも向けられており、「クィア理論」という言葉を作り出したラウレティスが後年、「クィア」という言葉がさまざまな差異を考えるための言葉から、異性愛規範でないものをすべて一括りにする言葉として使われる向きがあることを批判的にとらえだした、というエピソードは、ひとつの言葉で括ることで括られた内部に存在する個別のそれぞれの違いが可視化されないものになるという懸念は、どのような「わたしたち」を語るときにでも常に念頭に置かれなければならない、という一例としても極めて重要だと考える。

「対話」が必要という前に「対話」が2人以上のその場の構成員みなにとって安心して可能となる環境・状況はどういうものかを想像すること。権力勾配に意識的になること。人間なるものにカウントされるもの、そうでないものの線引きをする権力の働きを問うことについての記述もとても印象に残っている。『ジェンダー・トラブル』にこの勢いで突入したほうがいいのではと思いつつ、次に読むのは『ノンバイナリー:30人が語るジェンダーとアイデンティティ』かなと借りてきた本、買った本を前に迷っている。

@socotsu
そこそこ/日記のタイトルは川柳