インターネットで威勢が良い、あまりにもよく見かける言葉で何かをおすすめするひとを見かけるたびに、それが自分がもともと好きか何かであればさらに、わたしは絶対こんなに軽々しくよいと思ったものを誰かにおすすめしたりしない、と強く思いながら反面教師にするふてぶてしさがある。というより基本的に、誰かになにかをあまりすすめるという行為が得意ではない。わたしはこれが好き、ということは言えても、特定の誰かにそれを押し付ける行為についてはあまり責任が取れないと思うので。と書きつつ私に何かをおすすめされたここを読んでいる人たちがいたら、たぶんあなたのことを信頼していて、わたしがすすめたものについて、あなたが自分で取捨選択してくれると思っておすすめしたのだと思います、といういやらしい言い方をする人間。そんなことを言いつつ、自分が知らないよさそうなものについては情報だけちゃっかりいただいたりしているので、かんぜんに矜持が打ち勝つ/負けるタイミングをコントロールしていますねこの人は。
しかしおすすめをする言葉でなくても、何かについて表現するとき、自分が扱える範囲から大きくはみだした、あるいは実寸を把握していない曖昧な言葉ではなく、自分にしっくりくる言葉を探して、その言葉と一緒に歩きたいと願う。実際はそうではなくとも、わたしだけがその好きなものの良さを知っているのだから、という臆病な自尊心を抱えながら、できるだけわたしにしか選べない言葉を組み立てて、その好きなものをひょいとくるんでしまいたい、という独占欲の現れでもあり、しかしそれは奇をてらった表現というのとも違う。
言葉と一緒に歩く、といえば『言葉と歩く日記』(多和田葉子)。昨日、以前から選んだものと選んだものに対する表現がすてきだと思いながらよく読んでいる人の日記でジュンパ・ラヒリの名前を見かけ、だいぶ前に読んだ『低地』について、自分は何か感想を残していただろうか、と読書メーターを遡っていた。この本こんな前に読んだのか、という読み終えた本の中に『言葉と歩く日記』もあったのだけれど、後天的に獲得した言語、あるいは第一言語ではない言語への思いを書いた文章、書く文筆家、小説家が好きで、個人的にジュンパ・ラヒリ、多和田葉子、それかは広い意味では水村美苗もそのカテゴリかもしれない。なんらかのかたちで移民の体験をした人の書く文章、作家、ということになるが、自分がそういった体験をしたことのない立場から、それに惹かれると表明することへの居心地の悪さはあるし、そのもぞもぞとした思いはわたしがそのまま引き受けるべきであるものとも思う。
多和田葉子といえば『雲をつかむ話』の終盤のこの台詞をずっと心のどこかに置いて生きている。
面白い話は他人のものでしょう。あなたの話ではないのだから。それを奪って商売をするのですか。あなたの人生は退屈で幸せなものであっていいのです。
晩ごはん、昨日の残りのホタルイカと甘夏と筍、昨日追加で買った砂肝を炒めてオイスターソースで味付け、白髪ネギとあえて食べた。炒める油には以前友人からもらったティムルと生姜、蒸し焼きは紹興酒で。最終的には自分の好みの味と食感になってよかったのだけれど、砂肝は今井真実さんレシピのコンフィにしか使ったことがなかったため、銀皮の処理を盛大に間違えていることに後から気づき、可食部分がかなり減ってしまったので、次回はちゃんとやります。平日一人でふらっと食べに行きたい飲食店はあるけど、結局こうやって一人で作って一人で食べる楽しさに比重が傾きがち。
自分のなかで、ある本に対して、それを買う旬と読む旬は重ならないと思っていて、でもその双方のタイミングがぴったり合ってそれはそれで幸せ、という珍しいケースもあり、先日の『さびしさについて』はそれでした。あー次読みたいなーと思っても忘れてしまうのが常なので、最近読みたいと思った、すでに買って家にある本のタイトルを書き連ねてみる。
岡野八代『ケアの倫理:フェミニズムの政治思想』
三浦哲哉『自炊者になるための26週』
片山廣子『ともしい日の記念』
津村記久子『うどん陣営の受難』
ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』
中西森奈『起こさないでください』
滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』
イリナ・グレゴリもまだ、ルシア・ベルリンの2冊目すら読まぬ間に岸本さんが単行本の準備してるっていってたし、積読本に追い立てられて走り続ける(逃げない)。