朝食べるパンに生かされ、グルテンが思うように減らせない人間です。
パンを減らすどころかおまけをつけている。カタネのくるみチャバタ本当に好き。これもひきが強めな外かり中もち系。
宮本常一『忘れられた日本人』を読み出したら、SNSでアカウントをフォローしている方のRTで今日が命日だったことを知り、気安くも何かの縁を感じてしまう。これはわたしが以前からこの分野に興味がありつつめちゃくちゃ身構えていたのもあるのだけど、冒頭の「寄り合い」の描写を非常におもしろく読みつつも、特にこの場に集まる人間の性別は書かれていないが、この「老人」は男性だろうし、おそらく女性であれば有徴な存在としてその性別が書かれる気がする、たぶんこの大事な場所を決める場には女性は呼んでもらえないのだろうな、という想像を早くもめぐらせてしまった。筆者が研究者としてどのような見解をもっていたかとは別として、またある側の性別をおとしめるような表現が特にないとしても、こういったコミュニティのある種の政治の場ともいえる集まりで、自然にいなくていい人扱いをされる、このような女性の扱いを見聞きするたびに、まあ、この時代や土地では当たり前のことなんだろうけど、そうだよな、とするすると読みくだすには胸のあたりになにかつっかかりが生まれてしまう。たんたんとそういうことがあったのだ、とただ書かれているだけだったとしても、いったんあれこれは傍に置いておいて、とすなおにおもしろがるのがむずかしい。そう、だいたいすなおになんでもおもしろがれない性質です。自分の属性でなくても何かを踏んでいないかいつもびくびくしてしまう。もちろん見落としなんて山ほどあると知りつつ。本書におさめられた「女の世間」を締めくくる「女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめてある何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。」という一文の、その先を考える世界に自分は生きている。
このあと目を通した、菅豊「フィールドワークの宿痾―公共民俗学者・宮本常一がフィールドに与えた「迷惑」」のなかで、宮本常一が牛の角突きという風習の復活・活性化に一役かったことで起きてしまったこととして列挙されている中に、タブーであった「女性が土俵に上がり牛に触る」が入っていて、お、おお……となってしまった。「ミシンは女のだんじりや!」@カーネーション の啖呵を折に触れて思い出してしまう。功績を全否定するという話ではなく、よそものである研究者がフィールドワークという名目で、どれだけ注意を払ったとしてもおかしてしまうかもしれない/おかしてしまったことについて知っておきたいと思っていた。
やはり「女は土俵に上がれないレベルの話がゴロゴロ出てくる」と視界の端にテロップを出しておく前提で読まねばならない、と改めて腹を括る必要があるなと思いつつ、私は私が持つ属性のひとつによりその文化・風習には関われない、けれど私の別の属性はそのコミュニティを脅かす優位性を持っている、ということについてもまた上記の論文を読んで考える。ある文化や風習に貢献するほどの影響を与えることはないにしても、たとえばあまり観光地として整備されていないような土地によそものとして足を運んで、ここにしかないものがある、というようなわかった口を叩くようなある場所との関わり方もまた、こうしたフィールドワークのグラデーションの先にある行為では?というためらいがずっとあり、たぶんいつまで経っても「旅が好き」と言い切ることができない。これは非常に乱暴・雑な書き方で、もっと具体的な事例を書いたほうがいいんだろうけれど。文化圏が異なるものごとに触れる際の敬意の持ち方、単なる心持ちの話だけではなく、具体的な行動について。敬意を持って「おもしろがる」ことのたやすくなさ。
これも読んでみたい。
晩ごはんにセロリとさきいかのあえもの、牡蠣と海苔のスープ、それ以外は先週からの持ち越し。セロリとさきいかのあえもの、かなりヒットでした。
これはおいしくなくなりようがないてっぱん。家で自分の作ったものを食べたり考えていることを文章にしたり編みものをしたり本を読んだり、時間が全然足りない。夜映画を見たり出かけたりしたいのに、その気力がない。労働時間はひとより短めだと思うので、何を甘いことを言っているんだと自分を諌めつつ、それでもこれから先働き続ける人生のことを考えるとくらくらする。時間の使い方をうまくしないと、と思いつつ、なんで労働にこんなに振り回されて生きなきゃいけないんだ、と腹立たしくもなる。