6月5日

socotsu
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『現代詩手帖』の特集「パレスチナ詩アンソロジー」を読んだ。ヌール・ヒンディ「技巧の講義はクソどうでもいい、私の仲間が死んでいる」と、ジョージ・エイブラハム「あらゆる代名詞がFree Palestineとなる詩作法」「死海の亡霊たちが溺死の歴史を書き直す」が特に印象深く、とまで打ってから、印象深い、というと非常に距離が遠く表面をかすっているだけにも読めてしまうことに、定型文でしかその衝撃を伝えられないことにもどかしさを感じている。ヌール・ヒンディの詩はSNSで繰り返しシェアされたのが伝わるような、短くまとめられたからこそストレートに飛び込んでくるような怒りの発露への衝撃と、一方で発生する飛躍にSNS上で見かける政治や社会、差別に対する怒りを詠み込んだ短歌を読むときに近しい親しみを抱いた。日本語に訳した際に日本語話者にそう伝わる表現に寄せているであろう、翻訳の文体によるものも大きいだろうが。ジョージ・エイブラハムの「あらゆる代名詞がFree Palestineとなる詩作法」のなかでの世間のハマースやパレスチナへの誤謬、バイアスを逆手に取る風刺表現に、師岡カリーマ・エルサムニー『イスラームから考える』の「悪の枢軸を笑い飛ばせ」を思い出していた。

ぱらぱらとめくってみたけれど、いままた読み返した方がいいのではという内容。

「死海の亡霊たちが溺死の歴史を書き直す」は下記リンクで本人の朗読を聞くことができます。日本語に訳した時、原語の韻がどれくらい残っているように読めるか、という部分は自分が日本語で読んで惹かれる要素として大きいのかもしれない。

過剰ではない言葉で読んで感じたことを書き留めるのは本当に難しい、いま表現として差し出された際にくっきり浮き上がって受け止められた、といえばよいのか、しかし私にとって浮き上がって見えなかったとしても、どの作品もそれぞれに必要で、ただの「感想」は書き留められたとしても、私は評価をできる側ではない。

『現代詩手帖』特集 パレスチナ詩アンソロジー

詩は誌面で読んでほしいけれど、岡真理へのインタビュー「「人間の物語」を伝える責務」の一部だけ抜粋する。

日本には、アジアの国々を侵略した歴史を持つからこそ、占領や植民地支配の暴力を繰り返さない、繰り返させないというつながり方だってあり得る。かつてのベトナム反戦運動のように。けれども、政治的不正義を許してはいけないという価値観を社会的に育むことが、日本では意図的に阻害されているのではないか。「植民地主義」という言葉や日本の侵略は歴史の授業で習うけど、それが支配された側にとってどういう暴力だったのかは、きちんと習わないですよね。

フェミニズムの運動のなかで、かつてすでにコミュニティ内の「女性」だけでないマイノリティ属性を持つ人たちを差別した歴史があり、その歴史に学ぶべきであるように、というのはそのままストレートにつながる流れかもしれないけれど、左翼男性に結局共闘する相手としてみなされなかった、軽んじられた過去があるからこそ、フェミニストこそは、フェミニズムは運動内での異なる属性を持つ人間間での、より弱い立場の人への不平等、差別に敏感であるべきだ、という転じ方の方がまだ近いだろうか。近くないかもしれない。それはそれ、これはこれでもできる範囲の不買と関連する本を読むこと、また周囲の人たちと話すことを続ける。下記リンク先も毎日押している。

読みやすい本を読みたくなってしまうし、その時読みたいと思う気持ちに従うべき、というか無理やり読んでも読めないのだけれど、できるだけ読みづらい本を読みたい、という方に自分の気持ちを持っていけたらいいなとは思う。

梅ピュレをカットしたトマトにかけた皿

梅ピュレでキラキラするトマト。

@socotsu
そこそこ