自分の読解力の問題で読み通すのにかなり苦労したけれどとてもおもしろく、特に後半たいへん興奮しながら読んだ本『私が諸島である』の感想(かなり悩みながら書いた)が著者の方まで届いているのを発見し、驚きとうれしさで数センチ浮き上がった。ガラス瓶に手紙を詰めて海に流したつもりでいたら、思いがけないところまで届いていたような。大手検索エンジンで見つけてくださったわけでもなかろうが、と書名で検索して見つけた趣味が合いそうな、と思った読書記録ブログ、よくみたら温又柔さんのブログでびっくり。趣味が合いそうとかそういう話ではない。『私のものではない国で』を昨日読み終えたことに符合のようなものを感じてしまう。
台湾におけるカズオ・イシグロのような存在として応援する台湾の人たちの反応に鼓舞されつつ戸惑い、自分を日本人とみなさない日本人、台湾人とみなさない台湾人、○○人とみなされること、みなされないこと、他者が自分都合で引く境界線を跳ね除ける温さんが、台湾のパスポートを手に日本と台湾と中国を移動する経験を経て「国民国家」という枠組み、概念を疑い、それを「重大な欠陥のある抑圧的な権威」とは思わない人びとのことを焦ったく思うエピソードのつながりに、日本に生き日本語を話す「日本人」である自分のアイデンティティを疑いもしないで生きることの特権を深く考えずにいた期間のほうが長いわたしは立ち尽くす。「戸籍」の仕組みを疑うのなら、「国籍」についても同様に見つめなければ。考えていないわけではないけれど、温さんのような、自分の体験を語る人たちの本のおかげで、自分の生活をほぼゆらがせぬまま得た知識をかたわらに「考えている」「知っている」などと口にするのはあまりにもおこがましいという思いが先行する。わたしが住んでいる地域も、日本語以外の言語を主に話す人が多いのでは?というくらい、道を歩いているとさまざまな言語が聞こえてくる瞬間がある。
ジュリー・オオツカ『あのころ、天皇は神だった』の復刊に関する小竹由美子さん、藤井光さんとの鼎談での温さんの下記の言葉についても、そうした物語を安易に欲するマジョリティ側の視点が自分のなかになかったといったらおそらく嘘になるだろうし、そうではない物語こそを読みたい、というのもまた自分の立つ位置を考えた時、傲慢な気もしてしまう。
アイデンティティが揺さぶられやすい移民が、自分たちは何者なのかを周囲に宣言するために、祖先が歩んできた道のりを筋道だった物語として示したがる衝動は止むに止まれないものだと思います。私自身、自分の台湾の祖父母の話も書きたい。でも、藤井さんの表現を拝借すれば、一つの基盤に束ねられるような「在日台湾人の物語」を作ることは絶対に避けたいと思ってます。それでは単に、「こんな歴史があって、こんな目に遭って、それでも強く生きてきた私たちを知ってください」と日本社会に告発するだけのものになりさがってしまうので。
日本人だけが登場する作品を書いてほしい、とご本人にリクエストする人の存在を知って衝撃をおぼえている。
前髪を伸ばして分けたい気持ちは、前髪が伸び切るまでの我慢の期間を耐え切れるか、の想像にやすやすと負ける。いつものように眉上まで髪を切り、しかしちょっと変化のある切り方にしてもらった。帰り際、猫を抱っこさせてもらい、猫の重みを感じる。さらっと抱っこさせてもらったけど、猫を抱っこしたの何年ぶりだったのだろう。