昨晩読み終えたシャーリイ・ジャクスン・トリビュート『穏やかな死者たち』は最後のケリー・リンクの「スキンダーのヴェール」もすごく良くて、そう、私の好きなのはこのような奇想!とおもしろい小説を読めた高揚感とともに布団に入った。しかし仰向けになった途端に犬のことを思い出し、この日々はまだまだ続くのだろうなと思う。そしてハンバーグが胃にもたれて、よく寝つけなかった。
すでに前の日記に書いた「弔いの鳥」「所有者直販物件」もだけれど、いわゆる広義のお屋敷もの、家だけが舞台でなくても、作品の中で家という建物、場所が存在感を持っている作品に惹かれる。「スキンダーのヴェール」はその意味で好きな作品。柴田元幸の『MONKEY』に載っていそう。登場人物が語る「お話」が物語の伏線になっているようななっていないような、どう転ぶかわからないふわふわしたストーリーラインと寓話風の語り口が良い。「現実八割幻想二割」が好きというブログを以前書いたけど、「スキンダーのヴェール」や「柵の出入り口」(重要な登場人物の描き方にクィアネスを感じる)に「ルイス・ノーダン『オール女子フットボールチーム』も思い出していた。
それ以外の作品だと青春ものとして自分にはない記憶が痛むような「精錬所への道」の読後感も好きで、特に解説で書かれていたようにサムワン(魂の双子)を求める少女同士の関係性、そして魔女というモチーフも重要な「苦悩の梨」(拷問器具として『チ』に登場したことで知られている?らしいということを検索して知った)は、自分はこの手の、周囲とうまくなじめない子どもの肥大化した自意識こじらせものにいつまでも執着していることを再確認する作品だった。
わたしがたしかにわかっているのは──理由はなんであれ、人が姿を消すとそのあとには穴が残るということだ。充分に長い時間がたつと、残るのは穴だけになる──穴以外なにもなくなる。人がいってしまった、そして二度ともどってこない、という想定。それは、ほかのあらゆる異常な出来事同様、それ自身の重力を生みだす。そして残されたものはすべて、その周囲を回りつづける。永遠に。
レコードを引っ掻いたようなもので、溝が残る。二度とまっとうな演奏は聴けない。だからその消えてしまった人にまつわる傷ついた曲を聴くたびに、彼女はほんとうにいってしまったのだしもしかしたら死んでしまったのかもしれない──と改めて思い知ることになる。
その思いは全身を、身体のそこらじゅうを打ち据える。石ころが詰まったかばんのように、あなたをゆさぶる。あなたはひとつの大きな打ち傷になる。
「苦悩の梨」p.376
穴を残すのは人だけじゃないね。
エンターテイメントに「怖さ」を全く求めない、どちらかというと苦手な人間だけど、それはいわゆる人間がどんどん悲惨な死に方をするいわくつきスポットやシチュエーションにまつわるスリルに興味がないから(怖さだけ感じておもしろく思えない)で、人間の忍び寄るような悪意の怖さについて描かれた「抜き足差し足」は、おもしろく読めた。そのような悪意はいまあなたがいる世の中にも存在するのですが……と気づかせてくれることこそにおもしろさを感じる。
おまえたちは愛されている、だが取り替えがきく。愛されている、だが取り替えがきく。
「抜き足差し足」p.476
ヒグチユウコさんのイラストが表紙のこの短編集にも「スキンダーのヴェール」が収録されている。
ところでこのシャーリイ・ジャクスン・トリビュートを手に取ったのは『不思議な国の少女たち』シリーズの4作目以降の邦訳はまだかまだかと待ちわびているショーニン・マグワイアの作品目当てだったのだけど、「深い森の中で――そこでは光が違う」は全体のバランスとしては平凡に感じてしまったかも。でも理由があってしばらく訪ねていなかった埃まみれの別荘に足を踏み入れる瞬間の描写っていい。そしてそもそも実は『ずっとお城で暮らしてる』以外のシャーリイ・ジャクスンは未読なのでこの機会に読みたい。
仕事を終えてジムに行った後、昨日持ち上げたり落としたりしたパンを焼いた。

いいのでは?!側面の色が薄めという友人のアドバイスを受け、ストウブインを取り止め、ステンレスボウル被せて焼いてみた。ここからはボウルをとって焼きます。


中がどうなってるか冷めるまでわからないけどかなり良い。前回べちゃっとなったのは、水に浸したシードミックスのなかのオーツ麦がかたまりのままになってしまったからなのでは。というか重くて熱々のストウブの出し入れ、かなり怖いので、鉄板+ステンレスボウルでいけるならかならうれしい。