3月13日

socotsu
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晴れたのはいいものの、びゅーびゅー吹きつける風が花粉を舞い上げていっている様子が目に見えなくても感じ取れるようで、というか「ようで」ではなく、確実に身に(鼻に)堪えた日。年間のアレルギー薬とピルだけで医薬品代として結構な負担なのよ。

基本的に過剰な装飾のついた表現、格好つけ過ぎているたとえは使いたくない、身体から浮いてしまうような文章を避けようと意識しているけれど、突然、〜なのよ、などというとき、やわらかさを意識しているというよりもそういうコスプレをやっている感があって、つまりふざけている。Bluetooth接続しやすい近くのぬいぐるみを顔の前に持ってきてしゃべっている。おもしろみのある人間になるにはくそまじめすぎるきらいがあり、でもだれかをできるだけ傷つけないような範囲で、愉快さがこぼれる文章が書けたらいいなと思うが、さすがに〜なのよ、ひとつでおもしろくなれるとは思ってません。

滝口悠生『死んでいない者』

滝口悠生『死んでいない者』を読んだ。これが芥川賞受賞作品だったのか、と後から気づく。読みながら、1月に配信を見た演劇『長い正月』を頭の端っこで思い出していた。たくさんの人が集まる場での、個別の記憶の記述の仕方、淡々とした内省の声。

親族が集う通夜の晩、その場にいる人・いない人さまざまな人の視点・思考にシームレスに切り替わる文章。それぞれの人物の記憶に深く分け入りながらも、三人称というだけではない作家の文体の特徴ゆえに、どこか俯瞰的に描写されている。テーマ自体に好きも嫌いもないけれど、冠婚葬祭という普遍的なイベントであるからこそ、読者に自分のかつての近しい体験を自然と引き寄せるよう誘導しているようでいて、その記憶との距離を縮めたり遠ざけたりするような記述の仕方、文章が魅力的な、不思議な読み心地の作品だった。この文章を書いた人があの書簡であのように植本一子さんと言葉を交わすのがわかる、と思う。他の作品も読むぞ。

寛は泣くことをやめられずにいながらも、祖母が困惑し、自分のことをかわいそうに思っていることがその手つきや動作からわかった。祖母が自分でそれまでに感じたことのあるさみしさや、泣きたい気持ちが祖母のなかにあり、それを今思い起こしているとわかった。いや、わかったわけではないのかもしれないが、そうだと思い、祖母のその時の顔はどういう顔だったとも言えず、かなしそうでも愛おしそうでも苦しそうでもあった。今となっては、うれしそうだったようにも思えた。

p.120

自分よりも弱い者を前にしただけで、まるで自分が強い者であるかのように振る舞わなくてはならないことになり、一緒に弱くなれない。変わらず自分も弱く愚かで、もしかしたらお前たちとほとんど変わらないか、もしかしたらお前たちよりも簡単に逃げてしまうことができるのだから本当はもっと弱いのかもしれない。けれども逃げることを知らぬお前たちは逃げて虚勢を張ってる俺を強いかのように頼ってくるから、俺も強い者であるかのように振る舞うが、俺には何も、お前たちの頼りにできるようなものなどない。

寛がそう思う時、蚊帳のなかで泣いている自分をなぐさめた祖母の手や顔を思い出す。

しかし寛の記憶は混濁している。弟の出産でこの家に預けられ、夜布団のなかでべそをかきはじめた日、横でなぐさめていたのは祖母ではなく祖父だったはずだった。

p.126

寛、読むとわかるけどかなりだめな夫で父で、しかしここの文章、描写が非常によいので突き放しきれない。この内心の吐露の書きぶりがいいのと人間性とキャラクターとしての魅力は全部別なのだが、こういうタイプのだめな人ほど物語で輝いてしまうのはしかたない。現実にいたらほんとうにきびしいが、多分もともと失踪する男性キャラクターに弱い。『死んでいない者』の中では多分みんな好きだと思うけど美之もよかった。

『死んでいない者』(生きている者)だと思っていたけど『死んで・いない者』(死んでその場にいない者)でもあるのか?と思ったら、同じことを言っている人に読書メーターで感想をいいねされたのできっとそう。

焼いた芽キャベツ、ねぎおから、鶏胸肉の上にアボカドのワカモレ風と粒マスタード、チーズふたかけ

右端に見切れているのは豆腐。焼いた芽キャベツからお好み焼きのにおいがしてきて、きみたちも小さいけどキャベツだったな、とフライパンを前に謎の頷きが発生した。

鶏むね肉の上に乗せている粒マスタード、商品名と発想全般が文化盗用・ステレオタイプの再生産では?と両手をあげて支持しがたい、味はわりと好みの調味料を出している店のもので、しかしかなりおいしく、この粒マスタードはまだ商品名も発想も許容範囲では…?と自分に言い訳をしながら食べてしまっている……

粒マスタード

特にぼやかす必要もなくここです。

@socotsu
そこそこ