出勤憎しの気持ちが強くて足取りがいつも以上に重かったのは月曜日だったのに加えて雨が降っていたから。しかし午前中にやるべきことの順序を確認できたのでなんとかなりそうと思いながらの昼ごはん、弁当にそえて包んでいた箸箱を開けたら箸が入っておらず呆然としたけど、置き割り箸があったのでことなきを得た。自分の粗忽が発生するタイミングを想像して先回りしておく。
鶏むね肉を買うつもりで間違えて手に取ったもも、塩と胡椒をひい手しばらく置いた後、フライパンでガリガリに焼く。ひさびさに食べたらこれはこれでおいしいのだけど3切れくらいで十分だった。写真は1切れすでに食べております。ラスト筍と新玉ねぎはトースターで。やっぱり少し冷ましてから食べた方が味がわかっておいしい。コーヒーもワインも日本酒も少しぬるくなってからが本番、という話を昨日したばかりだった。
西洋美術館の展示の「反幕間劇」についての批判投稿を見かけてからずっと考えてしまっているが、考えるにはあまりにも鑑賞に割く時間が短く、その材料が少なかった。あのキャプションの「ここで試みられるのは、けっして社会問題の告発ではない。むしろ、国立西洋美術館がこれまで見つめてこなかった世界の様相である。」の部分についてはやっぱり何度思い返してもキュレーターへの批判的な意見は持ってしまうけど、イコール作者の見解とは思っていない。また、あのパートが階段下から始まる構成についても、その前に展示されていた西洋美術館へのプロポーザルの内容を考慮すれば、美術館のデザインとしてこれは多くの人にひらかれているとはいえない、キュレーションとしてどうなんだろうという考えは鑑賞者ひとりひとりの頭に自然と浮かんでくるように感じる。その後の展示の配置も、わたしは空間に対して作品が詰まっている状態を、作品とのポジティブな距離の近さとしてとらえてしまっていたけれど、それはやっぱりあの場所を自分の脚を使って不自由なく見てまわることができる、そのことを特権と感じない健常者の目線だったと思い直した。展示の内容を活かす構成であったか、やっぱり疑問が残り、でも問題提起がなされただけ意味があった、という見方もあるかもしれない。ずっと前から提起されていた、なんで今更、という人も多分たくさんいて、しかしこれは今回初めて見えてきたと捉える側、それを今まで見なかったほうの問題なので、その人たちの問題では絶対にない。でもきちんと見えていなかった人たちに、見えていたけど取り上げるのを怠っていた側の目の前に提示する、取り上げさせる意味は確実にあると思う。今更すぎるのは本当にそうです。