わたしの夏が終わってしまい、明日からは余生としての夏を生きます。これは概念の話で、前々から予定していた8月頭まで上演されている好きな作品の観劇予定が今日で最後だったので、わたしの夏はもう終わってしまったつもりでいる、という意味です。
とても好きな俳優が出演しているからといって、それだけで作品自体を好きになるわけではない、2人以上出演していても同じ、ということは過去の経験から理解していて、なので文句をつけたい部分はゼロではないにしても、おおむね作品自体を好ましく見ていたのは確かだと思う。多くの人にとって大味グランドミュージカル、ショーと思えばばつぐんのできだよね、ととらえられる作品であっても。だれかを否定したくない、とかいい子ちゃんになりたいわけではなく、その感想もとてもよくわかるので。
人間はその人ひとりで完結していて、自由で、たとえ愛しているだれかであってもその人間を所有することはできやしない、そのうえでそのだれかを自分の手の届く範疇に形を変えてとどめておきたいと思ってしまうことがあるもので、この作品においてロートレックというひとの立ち位置に非常に関心を持った自分にとっては、MALE GAZEには違いない「サティーン、僕のミューズ!」「僕が君を永遠にする」という、これだけ抜き出せばおぞましくともとらえられる台詞のニュアンスにとても心を寄せて見て/聞いてしまった。「僕のミューズ」の後に「私の天才」とサティーンが返したり、それ以前の二人のやりとりに「僕たちはよく似ているからね」という台詞があったのも、ひとつの台詞だけ抜き取った印象をずらす効果が意図されていたと思う。かんぺきではないとしても。同志のような二人の間柄だからこそありえた台詞の応酬としての。二人のロートレックはどちらもとてもよかったけれど、上野さんの、プロレタリアアートを生み出す芸術家と言われて納得がいく、公爵相手にも、あなたは芸術家を敬うべき、あなたは私をもっと恐れるべき、という台詞を突きつける姿が堂に入った、サティーンと一緒にパリで年齢を重ねてきたことが伝わるようなロートレックが特に好きで、歌唱という意味ではおぼつかないなと思う部分もあるのに、わたしのムーランルージュのロートレックは彼だ、という確信があった。「生き様が違う」「俺たちは自由」の軽やかさが年輪を重ねたものであること。よしおクリスチャンの「We are young」を聞くと、その人にとっては今日が一番若い日、というフレーズが浮かぶように(いやみではない)。
多分そんなロートレックの視点でまぶしくクリスチャンとサティーンを見ていた、といったら綺麗にまとめすぎなんだろうか。一幕終盤のElephant Love Medleyの「目を開けてよく見てごらん愛はきっと目の前にある」の追いかけっことか、もう泣き出したくなるほどのよくわからない幸せな思いがじわっと滲み出してくる感じで、こんな幻のエッフェル塔にまでのぼってしまうようなお金をかけた異性愛のパロディ、笑いをもよおして当然くらいのばかばかしい誇張表現として意図された演出なのに、本気で感じ入るのはおかしい、という理性はある。なのでこの二人のパートに関しては演じている人たちへの思い入れをすかして見ていることは確かで、ここに文章を書き連ねたところでこの人は冷静な判断ができていないのだな、と思われるばかりであることはわかっている。
『バトラー入門』を非常に興味深く読み、感想を書いた人間が翌日にシス男性とシス女性が演じている、シスヘテロ男性とシスヘテロ女性の大!恋!愛!フィクションものを好んで見るんだ、へええ、という気持ちは誰よりもおそらく自分が持っており、第三者に納得がいく説明はできようがないのだけれど、わたしは漫画や小説、フィクションのなかに関係性を見出すおたくとして人生の多くの時間をすごしながら、そのうち、男女の恋愛ものを好んで読んできた時間のほうが長く、でも現実の自分はそういった恋愛全般から距離をとって生きてきた(というと自分から距離を取れていたようだけれど、向こうからごめんこうむります、といった態度を取られていたとも言える)とも思っており、それってなんなんだろう、不思議だな、と思いながらここまできてしまった。そしていまこのミュージカルにいきついている、という次第です。こんなふうにだれかを重たく愛する気持ちなんて一生分かりようがないのでは?でもそれがふつうでは?とスノードームのなかにいるかわいいおにんぎょうの愛憎劇を見つめているような心地でいた。永遠に触れられないからそこにとどめておける。記憶から薄れてしまってもあったという事実は消えないし、誰のものにもならない。10年分の夢をこの2年で分割して見ることができ、大変ありがたかった、一生の思い出にします、とこのまま眠りにつきたいけれど、またいつか共演あるでしょ、あきらめないで生きろ!と手を握ってほしい。もうじゅうぶん見て、今の自分のキャパシティではもうこれ以上見ても大事にできない気がするのでいいんだけど、この記憶をそっくりそのまま真空パックにしておきたい、という思いで日記を書いている。前方で見るのももちろん(い、いきてる…)感があって、受け止め切れるか別として幸せではあるのだけれど、あの作品の照明がとても好きなので、2階センターブロックや1階センターブロック後方から見た、舞台上部の縁まできらきら輝く照明全体が視界に全部おさめられたときの、一幕冒頭や二幕冒頭のぞくぞくする感覚を忘れたくないと思った。テニミュに足繁く通っていたころ、2階席ばかり取れた公演があって、若干気を落としつつ着いた客席から見下ろした舞台上の照明のうつくしさに心を奪われた原体験がずっとよいものとして残っているのもあり、後方や舞台を見下ろす席から引きで見る舞台観劇を大事にしたいという想いがずっとある。
ここ最近その思いが強くなっているけれど、その日に人と会ったりすると、他者と共有した体験をどこまで書いて良いものか、という判断が難しくなり、結局食べたものの感想に終始してしまう、あるいは平日仕事の日は自炊や読んだものの感想に終始しており、日記ってなんだろう、と考えあぐねている。
てきとうに作ったゴーヤのわた入りアチャールがおいしい。すいかにフェタチーズもやりました。そして好きなパン屋の当日焼きの皮部分を噛み締めた。
