仕事中、これまでAだったことをBに変える根拠として、それはつまりめんどうなことが起きる可能性をつぶしておくためだけの非常に保身に走った内向きの対応ですよね?としか思えない理由を掲げられた上に、わたしたちが想定しているそのルール変更が必要な理由を推測できないあなたは考えが足りないのでは?と忖度の足りなさを案に責められる態度をとられて結構むかついていた。別の同僚に相談しにいったら、あの人たちまたそういう感じ?とあきれられ、しかしその同僚もかなりくせつよタイプなのでこの人の意見に100%同調するのも危険なんだよな、と今回の件については同僚に同意なのに、一歩引いてしまう自分の意思の貫けなさ、意見の違う相手と話し合う粘り強さのなさはプライベートでも課題ととらえてはいる。わたしも、こいつくせつよだからこの件についてはさわらんとこor言う通りにしとこ、と思われるような人間になりたい(?)。
表面がつや消しに見え、なにかを塗り忘られた気がしているけれどもちもちぶりはさすが。しかしやっぱりブルーベリーはサンドで食べるほうが好きかもな、という思いを新たにした。
ハンカチに描かれたねこの目がカエルを見ている。
リーディング公演『家族の配列』を見た。作中に小道具として登場するスマートフォンを台本がわりにする演出はビジュアルとしては違和感がないようで、紙の台本とは目線の落ち方、距離が異なるので「読んでる」っぽさは増す気もしたが、演者の技術が一定クオリティより上という意味で揃っているので、話に引き込まれながら鑑賞することができた。(と書いてしまうのは、これより一つ前に見たリーディング公演の演者のクオリティが結構バラバラで、脚本は興味深いのに話に入り込めずきつかったから…)
母親が違う二つの家族、姉妹弟4人(1人と3人)が父親の葬式の場で出会い、わだかまりをぶつけ合う機会を経て、徐々に打ち解けあっていく。父親との関係や家族という集合体のなかでそれぞれが受け持ち、押し付け合い抱え込む役割や、個々が抱えている問題も明らかになっていく。
父方の家の裕福さにもよるのかもしれないけど、男の子ども(惣領息子か?)が後を継ぐ、墓を継ぐ、という頑強なシステムが台湾でもまだ残っていることに驚き、同時に、親を亡くした姉妹の一番上の子どもが親のように振る舞い出す姿が物語のなかで描かれるのはよくあることなんだなと『外地の三人姉妹』のことも思い出していた。長女は「弟」の変化にもあからさまにいやそうな態度を取るし、その態度は末の子が心配だから、で済ませていいものではないのだけれど、最終的には本人の選択を彼女の可能な範囲で尊重する。次女の存在の描かれ方との対比で、戯曲としてのバランスは取れていたのかなと感じた。「切ってはならない」が笑いどころっぽくなるのはもともそうなんだと思うけど、この日本の世の中で、それを笑う観客がどの程度の知識を備えた上で笑っているのかわからないなと思うと個人的にはあまり笑えない。しかし話の流れとしていやではない(真剣に口論をする本人たちが言葉を掛け合うなかで会話としてちょっとのおかしみを含んだ空気が発生する瞬間は、確かに物語の中に自然なものとして立ち上がっていると感じた)。
ストーリーとしては前後してしまうけれど、非常階段で人感センサーでついたり消えたりする照明が消えた都度、手を振るそれぞれのしぐさや紅葉ケーキをあの場所で食べる光景、毎年2つのケーキを用意される2つの家族を持つ父親への子どもたちからの愛憎がコミカルに、でもそれぞれの台詞からじわりじわりと染み出していく物語の運びはとてもよかった。子どもが噴水のキューピットの矢で怪我したらキューピットの像をその場で引っこ抜くほど怒るくせに、猫にひっかかれたら爪を切る程度でとどまる、というようなちょっとしたエピソードの積み重ねで、憎めない父親像を客席と舞台の間にふわふわと漂わせつつ、しかし親世代で終わるべき風習はきっちりと終わらせる、その塩梅もよかった。子ども同士が仲良くするのもある意味復讐?家柄が釣り合わないことで結婚できなかった相手と婚姻関係を結んだ妻とは別の家庭を築いた男への、というよりも、その状況を生み出した「家」へ?なんてことを想像したりもした。まあそれはそれで甘すぎる見方かもしれないけれど、キム・エラン『走れ、オヤジ殿』みたいなニュアンスも受け取っている。あんなに家から文字通り走って逃げるダメ父親像感は出てないかもしれないけど。わたしはその場にいない人の話をする話が好きなんだ。
帰宅途中、駅なかで買った🌷