2月25日

socotsu
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公開:2024/2/25

また寒くなってしまって、もう絶対家から出ないぞ、という強い気持ちが芽生えかけたけれど、観劇の予定があったため、ギリギリの時間まで粘って家を出る。

フォカッチャに粒マスタード、菜の花、とサバ缶とクリームチーズ和えを挟んだ

昨日の残りの具を別のフォカッチャに挟む。縦の顎幅が足りない。フォカッチャのおいしさを最大限に味わうにはやはり単品のほうが?と思いつつ、贅沢なサンドだった。

ミネストローネ カリフラワー、菜の花、ベーコン、セロリ、長ネギ、しめじ

明日以降の弁当兼晩御飯に悩み、『Here』に倣って野菜室にあるもので、と扉を開いたら意外とからっぽだったため、少し悩んだのち最寄りスーパーへ。たくさん作りすぎると食べ続けて飽きるのはわかっているけど、たっぷりあったほうが気持ちの支えにはなる。自分の明日以降のおなかの気持ちはわたしにすらわからないのでしかたない。見切り品にあったカリフラワーを掴んでレジに持っていくも、帰り際に入り口付近のブロッコリーを発見してしまい、当初の予定はそちらだったので少し後ろ髪を引かれた。

フクロウの形のクッキー

お昼をとる時間がなく、朝も遅かったのでなしでもいいかな〜と思いつつ、劇場の駅に着いたらおなかがすいてきたので、かばんに放り込んでおいたスペルト小麦(たぶん)のクッキーを歩きながらむしゃむしゃする。

上野ストアハウス ワールド・シアター・ラボ リーディング公演2024のポスター

非常に引き込まれながら観劇し、めずらしくアンケートを書くために最後のほうまで客席に残っていた。一方でSNSでフォローしている方の脚本設定へのツッコミを拝見し、確かにこの日本を舞台にした『原宿ガールズ』がどういったルーツを持った作家によって生み出され、どこで上演されたかを考えたとき、この大学入学選抜の明らかに事実と異なる設定や(指定校推薦やOAと考えても変)「原宿」という場所のふんわりした取り扱い、女子高生の制服や下着を取り扱うアダルトショップ・パパ活(援助交際)・イメージクラブの露悪的描写をつっこみなく素直に受け止めるかと言われたらかなり難しいなと感じた(エモに流されやすい)。調べる気がなかったのか、悪意ありきでの改変なのか、と思われてしまってもしかたがない要素。あとから思い返してみると、宝塚の現代日本舞台もののような虚構感もあった。そう言ったら感想としてよかったほうにうまく収まるかというと収まらなくて、これは「なんかズレてて浮遊感がある」という悪口表現をすり替えたたとえです。しかしそれはそれとして、ちょっとした会話のテンポのよさや、いまの自分が仲良くするにはダサいグループに属するという評価をくだしている別の友だちを小馬鹿にしたふるまい、声のトーン、逆に親密な二者間の感情表現等、演者の演技のよさにぐっと引き寄せられてしまった。これは宝塚でいうところの「演者の努力に任せきり」とはまた違うと感じる。演出の良さもあったと思うので。上演形式としては、基本台本を手にしつつ、あるときは譜面台に台本を置き、喫茶店で見つめているメニューがわりに、あるときは自宅にしまいこまれていたアルバムがわりに、と工夫があり、また台本の扱いだけでなく、折りたたみ椅子や、中央に置かれたお立ち台やベッドにもなる長方形の移動可能な箱、照明や小道具も使い、めいいっぱい舞台全体を生かした動きのある視覚的にも引き込まれるリーディング作品だった。これは脚本上の設定によるものだけど、父親が仕事の面接をセッティングしてきたことを娘のマリに伝える→次の場面はその面接の場面と思いきや、イメクラのオフィスであることが最終的にアナウンスと突然丁重にマリに礼を伝える客の言葉でわかる、という流れは(よくあるものかもしれないけど)観客を撹乱させる物語の作りとして上手い(しかし嫌すぎる)なと感じた。

中盤、イメージクラブに勧誘するケイコとフミコがマリをけしかけるように口にする言葉「やりたいことをやればいいよ」「やりたいことをやりなよ」は、物語全編を貫く台詞として観劇中、たびたび響いてきた。年齢的にも女性として生きる立場としても、さまざまな局面で自己決定権が奪われている彼女たちにとっての「やりたいことをやる」とは。先日電車内で見た、よりいっそう「他者からの目線を気にした結果ではなく、主体的に整形を選択するわたし」を煽り立てる圧がパワーアップしているように思えてならなかった二重整形広告を思い出してしまった。それを「選ばされている」と外野が判断することもまた彼女らから奪う側にまわる行動なのかもしれないし、広義のセックスワークを選びとったその判断自体を責め立てるのははっきり違うと思うが、少なくとも彼女らが十分な選択肢が与えられていない状況にあることは事実だ。その上であの仕事を選択した彼女をもう娘ではないと罵る父親は、この戯曲のなかで幾重にもマリを傷つける存在(家父長制を体現するもの)として描かれているように感じた。マリが本当にやりたいことのためにあの家を出てゆく選択をなんとか取ることができたこと、その選択が可能となったのはマリとケイコのもとにたびたび訪れたユミのおかげでもあること、お互いがお互いの自立のために足りない部分を支え合うような決断する描き方にとても救われる。

また、ケイコというキャラクターが非常に魅力的に目に映ったのは、その不安定さ、内面性を豊かに表現していた演者の力がとても大きいと感じた。登場一発目から決まっているあのオーラはいったい。マリに対して親密さと妬ましさ両方を抱くケイコが中村を刺した理由は、直前のマリの言動に心を揺さぶられたことは事実だとしても、単純に友情の厚さ100%とは言い切れない行動であったと認識しているが、その上で最後の場面での二人の会話が非常によく、うっかり泣いてしまいそうになった。全体を通じてものすごくよかった、見て楽しかったといえる物語でなかったとしても、見終えた後に誰かと感想を話し合いたくなるような作品だった。

パクチーと長ネギのサラダ
羊のおやきふたつ

一人で訪れた時のメニューの組み立て方経験値が足りなさすぎて、こなもん比重が高くなってしまった。しかし餡を包んで焼く機械に放り込まれる一連の流れが観察できて楽しかった🐏

@socotsu
そこそこ/日記のタイトルは川柳