朝起きてくもり空だ!これはいけるぞ!と着替えて外に飛び出し走った、と書くとやたらと活発な人っぽいけど、この日記を書いているのは健康に関心があり、怠惰で根暗な人間。自分の中の面倒くさがりな部分を、ルーティンをこなせないとストレスがたまるマッチョな部分が若干上回っているのでなんとか成し遂げられていて、でもこういうのはよくない、もっとなんとなくに身を任せてやったりやらなかったりでいいじゃない、と思う。
帰ってきて朝ごはんだ、と準備をしかけた頃、母からこの人が気になっている、あなたは誰を支持しているの?というメッセージ付きで、石丸伸二のYouTubeチャンネルのURLが送付されてきたので、石丸伸二を支持しない理由、安野たかひろのリポジトリURL、私は蓮舫に投票すると思うという3本立ての内容を送った。政治の話をしないほうがよさそうな雰囲気がただよう家だったので、そのような話題を共有したことはなかったが、まあ向こうから尋ねられたらこっちも答えるよね。気軽にどんどん話していくしかない。実家は都内ではないので、親に都知事選の投票権があるわけではないのだけれど。
午後いっぱい、インターネットを介して知り合った友人と、気になる展示スペースを訪ねたり、ピタサンドを食べたり、お茶をしたりしながら、最近読んだ本や本のなかで登場するキーワードやエピソード、別の本に関して考えたことをあれこれぽつぽつと話した。関心を持つテーマがかなり近かったり重なっているので、会って話すと読みたい本が泉のように湧き出てくるのはとても楽しく、同時にもっとたくさん読みたい、という焦りも芽生えるが、数より読んでどれだけ読みを深められたか、自分に引きつけたり、距離を取ったりを意識的にできるのか、ということなのだろう。前から知っていた本でもこの人が読んでこう言うのなら読む優先順位を高めなきゃ、と思うのは、きっと話の流れで出てきた店名を検索してGoogleMapに立てたピンを再確認するのに近い。レベッカ・ソルニットは『説教したがる男たち』で「マンスプレイニング」の名付け親として有名だけど、あの本自体、きっぱりした主張で構成されている章が多くを占めているわけではなく、むしろソルニットの文章の魅力は、流動する思考に身を任せ、迷うことを支持するような考え方にあり、「ウルフの闇」に関する文章もその一部だった、というような話を共有できたのがとてもうれしかった。『迷うことについて』しかまだ読めていないので、ほかの既刊も読みたいし、勢いで買った『ウォークス:歩くことの精神史』も積んでいる。あれもこれもと思いつつ、一旦本を横に置いて、もっとAかもしれないしBかもしれない、でもCかも、という話をゆっくりとしたい。かってに急かしてくる自分をまあまあとなだめて、スピードを意識して落としたい。ケアの倫理、ネガティヴ・ケイパビリティに関する本の読む順位を高めておく。

そこまで暑くはないはずなのに、じっとりとした空気のせいで浸透圧か?というくらい汗がふき出てくる入店待ちの時間を経て飲んだ、いまこれを身体が欲していました、というしゅわしゅわした爽快な飲み物。

コンビニエンスストア髙橋のもちもちとした生地、やはりいちおしです。

外から入ってくる光によって店内からの見え方が違う。日が落ちたらどんな感じだったのだろう。

インターネットで存在を知っていたけど、ここだったのか!とびっくりして思わず写真を撮った。
そして奇しくも帰り際、新宿駅バスタ寄りの歩道で、蓮舫氏を支持するために多くの人が集まっている街宣の現場に遭遇した。本人の到着はこれからのようだったけれど、応援演説を受け持つ人の声の熱がこもったトーンや、そのかたわらに手話通訳士がいたこと、演説の字幕を読むことができるQRコードを示すカードが掲げられていたこと、蓮舫氏を次の都知事に、という期待に満ち満ちたその空間に漂う空気、さまざまな要素に当てられてしまい、思わず涙が込み上げそうになるくらいの衝動を必死になだめながら、通行者用に設けられた、左右が蓮舫氏の支持者で固められた道を通り抜けた。私自身、今回の選挙では蓮舫氏を支持し、投票するつもりだし、機会があれば能動的に自分の政治思想を表明したり、デモに参加したいと思ってはいるのだけれど、あれだけたくさんの人が集っている場を目の当たりにしてしまったことで、私も同じように期待していいのだろうかという希望の輪郭が突然くっきりとしてしまったこと、ある人を支持しその人のもとに集うという事実が可視化されるということが持つ強い力、自分が支持している人を後押しするものであっても、その強い力をある意味で恐れる気持ち、また、たとえばそこに自分が数として加わった際、個としての自我ははたして保てるのだろうか?という自分という人間の流されやすさ、信用ならなさ等へのさまざまな想いが一気にせり上がり、勢いよく渦巻いたことへの混沌とした涙だったと思う。もっと個としての輪郭を保ったまま、何かを賛同したり距離を取ったりしたいし、でもそんなことできるのか?必要なのは差別をしてしまうかもしれないと意識しておくことと同じように、自他の境界が曖昧になる瞬間を意識すること、意識した瞬間にどのような行動を取るか事前にシミュレーションしておくことなのかもしれない。シミュレーションしておいたとて、とは思いつつ。運動の場に身を置くことをもっと気軽にやりたい。
200日分をゆうに突破したくせに、やっぱり主は好きな人たちと会って話すことで、あくまで日記は副という位置付けでいる。人生より日記のほうがだいじなことはないだろ、という考え方。しかし備忘録として振り返って話したいことを思い出せるという意味では便利に使っていきたい。毎日しつこく書くことによって、これを全部読んでる人はそうそういないだろう、こんなの付き合いきれないだろうという想像により、好き勝手書けているところはある。書くことで考えを固定するのではなく、書いてあることはそのときそう思っただけ、書いていないことを含めて自分ができている、ということを確認する。