7月5日

socotsu
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公開:2024/7/5

めっちゃ暑い。暑いというかもう熱い、なのでは、というくらいもうもうとした空気を吸い込むと肺がぼわっと焼けそうな温度じゃない?いや、乾いていないから焼ける、ではないのか。こんなのもう外を歩いていい気温ではないよ、と行きもお昼も帰りも毎回びっくりしている。帰ってきてからすいかをむしゃむしゃとシンク前で立ち食いし、その足でスーパーで追加分買った。プラムも大石早生以外にもいろんな種類が出てきたり、桃が安くなったりしている。果物と野菜を食べて生き抜きたい。ぼんやりしすぎてパプリカを1色ずつと思ったのに赤を2こ買っていた。晩ごはんは豆腐麺。

伊藤亜紗『記憶する体』とクッキーモンスターのぬいぐるみ

伊藤亜紗『記憶する体』を読み終えた。後天的に視力や聴覚、腕や足といった身体の機能や一部そのものを失った人たちが、その感覚、身体の一部を持っていたときの記憶を保持したまま今の身体の状態を生きるとき、過去と現在の身体が重なり、ある障害を持つ人、というステレオタイプから隔たりのある、その人に固有のローカルルールが生まれる。そうしたローカルルールを持っている人たちの個別の事例をもとに、「体の内部の差異の持ち方」について示されている本。と、途中まで読んだ際にまとめようとしていたのだけれど、この本の各章の「主役」(筆者の言うところの)である人でなくとも、そのそれぞれの「属性」をもってその人を生きることで、なんらかの、その人固有のローカルルールが生まれる、その属性のステレオタイプそのままを生きている人はいない、当然のことながら。それぞれの固有の生を生きる人の個別の生き方を、くせを記述することで、それぞれの生の豊かさが読者に提示され、それはここに記録されていないたくさんの人たちの人生を想像することにもつながっていく。

つまり揺れてしまう不安的な心があるから、それに応対するものとして、体の安定を構築しようとしているのです。安定は、不安定を否定し、変化を固定するためのものではない。変化はどうしようもなく起こっていくのであり、むしろそのことを許すために、安定を構築していく。

p.237

これは吃音の当事者の方が、吃音とうまく付き合うためのアプローチを模索している状態を噛み砕いた文章。伊藤亜紗氏のそれぞれの章での「主役」の方の状態をあらわす説明の巧みさに、まったくその状態について知識のない人間でも、その人たちが立体的に目の前に立ち上がってくるような不思議な感覚を引き連れながら読み進めた。

今更すぎるけれど、じつは読書感想文が小さい頃から今のいままで非常に苦手で、それなのに何故日記でこんなに本の感想を毎回記録しようとしているのだろうという驚きと呆れがある。観劇の感想を書き続けることで感想を書くという行為に少し慣れた?と思ったけどまったくそんなことはなく、よかったところの抜き書きで終えたい、本当は。

しかし、なんとまあ昨日見たものに囚われていた一日よ🌀観劇帰りにお堀沿いのしぼんだヒルガオをしゃがんで撮っていたら、その私の様子を友人が撮ってくれて、この写真好き、と送ってくれた。私もかなり気に入っているけど特にどこにもあげない写真。

@socotsu
そこそこ/日記のタイトルは川柳