友人宅でのサンドイッチやおやつを買って食べるパーティー前日約束即決行編。サンドイッチがおいしい好きなパン屋さんにひさびさに足を運び、何も選べなくなってやたらと買い込んでしまう人間とその人間を止めるどころか後押しする人間の会合です。
朝に家でdancyuウェブ版掲載レシピでアイスティーを淹れたらとてもよかったため、友人の家でも試してみたら、渋みがないすっきりしたアイスティーが再現された。この夏の定番にしたいと誓い合う。
犬がのったほうのケーキをとる権利をじゃんけんで。といいつつ結局うまくケーキを半分に切れず、勝った友人がナイフで犬部分を削り取ってからカットした。いったん犬が乗ったままのナイフがお皿の端に先を預けられており、それを指さすと「飛び込み台だよ」と返ってくるような会話のテンポが心地よい。
バタークリームを好んで選ぶのはなにもかもがバタークリームだった世代ではないからでは、という話もした。
友人の身の回りの話をあれこれ聞きながら、世の中を自分たちが望むよい方向に変えていくのは、まずは周りの身近な人に少しずつ働きかけることで、それを草の根でやっている友人の言動に、これが本当の意味での丁寧な暮らしでは、と感じ入っていた。本当の意味での、という言葉をつけるのはあまりよくないかもしれないのだけれど、友人は一般的に言われる方の丁寧な暮らしの実践者でもあり、一般的に言われる方の丁寧な暮らしもまた、わたしがいうまでもなく、よく生きるうえでは重要なことだと感じている。なぜならそれは自分の生活を整えて、自分を自分でケアすることにもつながるからなのだけど、一方その整える、が非常に限定された範囲にとどまり、整えた空間内で生きることを優先するあまり、世の中の動きと距離を取る、あるいは断絶してしまう傾向を持つタイプの層もそこそこいて(友人は違うが)、そうした層のとりがちな態度への批判がイコール「丁寧な暮らし」というフレーズへの揶揄に繋がっているのだと考えている。それゆえに、全員が全員、周囲に働きかける気力体力があるわけではないのはわかっているけれど、暮らしを整えることと周囲の人たちへの政治的な働きかけは、それぞれ友人の中で矛盾のないシームレスな行動のようにわたしには見えて、暮らしのことを突き詰めて考えたら、自分一人の工夫ではどうにもならないことをこれはわたしたちの個人の努力ではどうにもならないよね、声を上げて変えて行くしかないよね、という話になるよね、というアクティビズムのひとつのかたちとして、自分が真似できるかもしれないやり方としてすごくいいな、と思った。わたしももう少しがんばりたい。ここでの決意表明しかいつもできてない。
帰り際に好きな本屋さんに行き、うんうん悩んだ末、トニ・モリスン『「他者」の起源』と山内尚『ノンバイナリースタイルブック』を買った。現代詩手帖最新号(【特集】パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く)も一瞬手にとって、いったん戻して買うのを忘れていたため、最寄り本屋に立ち寄って発売日をきいたら明日で、あれ、フライング…?しかしそんなWJみたいなことある…?と首を傾げている。