バレンタインにパートナーにチョコレートを一方的に贈るというイベントを久しくやっていない。2月14日はもはや高めのチョコレート共同購入デーなので、一方的に私が彼へチョコレートを贈るイベントがないならば、それがなにかのかたちで返ってくるイベントもない。そもそもバレンタインに買ったチョコレートをまだ消費しきれていないことを思い出した。日常にうっかりあふれるお菓子との向き合い方を考えるこの頃。固いクッキーやバターなチョコレート、基本的に甘くないお菓子が好き。
そのまま食べるならこれが1番、われらのシナモンレーズンよ。冷凍在庫もじわじわと減り、しかし他のパンとの兼ね合いもあるのでなんだかんだで新店舗開店までさみしくなるひまはない気がするが果たして。そして蒸し→焼きの「蒸し」のための小さい蒸籠がもうかなりぼろぼろになっており、まだぜんぜん使えはするが見た目的にどうしよう、と考え中。
冒頭からふたりがリード(連載当時のこの往復書簡の説明文章)について語るやりとりがすでにそうですよね、このお二人ならね、という内容で裏切られない期待。
それから、リードに「女性は子どもを産むとみんな『はは』になる」のが「当たり前のこと」だと書いてあるのですが?、この一六年を振り返ると本当にそうだったかな、とわからなくなります。子どもを産む前、わたしは自分のことをもっとずっといい人だと思っていた気がします。それから、自分がこんなにもいろいろと苦手で、「普通」が苦しかったり、うまくできなかったりするとも思っていませんでした。怒ったり、泣いたりしてきた記憶と、子どもが愛おしくて、楽しかった記憶とが、複雑に縒り合わされた紐みたいな感じ。
p.13-14(長島友里枝)
そうですね、リード(このおしゃれな単語初めて使いました)の「女性は子どもを産むとみんな「はは』になる」のが「当たり前のこと」とありますが、実は産まなくても「はは」になれるし、「はは」の代わりに「ちち」の場合もあるんですよね。
p.18(山野アンダーソン陽子)
山野アンダーソン陽子さんの手紙で語られるスウェーデンの状況について、このまま彼の国のすばらしい子育ての様子の説明をする山野さん、それを褒め称える長島さん、という内容に終始してしまったらどうしようと思っていたら、山野さんの、そうはいっても日本での子育ての方法が自分のなかにも深く刻まれており、スウェーデン流に何でも馴染むことはできない、という微妙なニュアンスを文章から汲み取ったと思しき長島さんの手紙の返事が絶妙だった。
スウェーデンの人たちの、子どもに手をあげる必要はない、という考えかたは間違えていないと思います。そのいっぽうで、これらの小説で描かれるような状況に、どこか共感する自分もいます。この共感は、子どもに手を上げることを「いい」と思っていることを意味するわけじゃないのです。社会や自分自身のなかには、矛盾するいくつもの考えや気持ちが存在するということ、矛盾を排除して、たったひとつの絶対的にパワフルな正しい物語を導き出すことに対して、警戒心がある、という感じです。
p.56(長島さん)
「これらの小説」はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』やノヴァイオレット・ブラワヨ『新しい名前』で、長島さんのいう「状況」は、その物語のなかで描かれるアフリカ系移民の登場人物たちがアメリカ社会に抱く違和感や戸惑いの一描写として含まれる、子どもに手をあげる親や子よりも年長の親族の行動を指す。ここでいうように長島さんもどちらかがよい、というシングルストーリーによらないことを重視している(©️アディーチェ)という話で、これは岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か: 第三世界フェミニズムの思想』で読んだ、「西洋のフェミニズム」から注がれる第三世界へのまなざしの話にも結びつくのかもしれないとも思った。まだ続きがあるので読みます。
「違憲」と「違憲状態」の違いを改めて調べた。わたしは「二人組」を法的に優遇する婚姻制度自体に疑問を抱いているけれど、今の社会では、私はパートナーが男性というだけで、婚姻届を出さずとも第三者から婚姻関係にあると誤認「してもらえる」立場でもある。今わたしが立っている、制度を利用する選択をあえて取らなくても良い場所から、すべての人に結婚の自由がないこの社会において、現状の制度自体への疑問を投げかけるということ自体、非常に特権的で、また個人としても居心地の悪さをおぼえる行為でもある。この日本の社会では、取り組む順番として、制度の廃止よりも、女性・男性同士、どんな二人組でも婚姻が可能な状況にある社会の成立が優先されるべきだと思う。そして同時に二人組のかたちをとってもとらなくても、ひとりひとりの個人に対して社会をよく生きるための十分な保障がなされるべきで、これを基盤にしてもっと細かく考えたいと思いながら、非常に漠然とした所信表明をかたわらに同じところを行ったり来たりしている。
以前から考えている事柄が目の前に現れたときの他者への応答と、何にでも言及していい立場にいるという勘違いの積み重ねによる言及の区別は非常にむずかしく、一旦保留にする、をもっと身近なものにしたいという話をしていたが、ネガティブ・ケイパビリティに関する本を読めばよいのだろうか。読みたい本が多すぎる。