気持ちのいい晴天かつ気温もお散歩日和の日。お散歩コースのモッコウバラも盛りを迎えている。SNSを介して知り合い、この日記を読んで声をかけてくださった方とお会いした。社交的ではないくせに、いやだからこそ、なのか一対一でじっくり人と話す方が好きで、自分から誘う勇気はあまりないくせに、誘ってもらうとうれしくなってはい、会いに行きます!となる人間です。いま関心があること、本や人間関係のあり方について短時間でぎゅっと詰まった話をして、やっぱりこのような身近な、個人的な話から政治につながる話を、わたしは親しい・親しくなりたい人とこれからも話していきたい、という気持ちが強まった。同時に、自分の関心があるイシューに対して興味がない、あるいはなんとなくネガティヴな意識を持っている、けれどこれからも親しく付き合っていきたいと考えている人たちとの関わり方についても継続して考えている。そのイシューについてもういっさいその相手とは話さない方向で行くのか、それをきっかけにその相手と遠ざかってしまうのか、それともどうにかして自分にとって大切なイシューについて理解してもらいたいと説明を繰り返すのか。実際問題、私は不特定多数の人とのゆるい関係を早々に絶ってしまっているため、いまのところそんなに困難な局面に遭遇したことがないのだが、根本的には打ち解けられない人とも、自分の心を守れる範囲でなんらかの関係性を保ったまま生きていけたほうが望ましいよね、まあでも厳しいことはあるよね、というふらふらとした立ち位置を振り返る。しかしそんな建設的な意見を表明してはみたものの、わたしの場合、おそらく血のつながった家族が一番その「根本的には打ち解けられない人」だったし、すでに結構諦めぎみであったこと、全然断ち切れていない人たちのことを思った。たまたまその親から生まれた子、その子を生み育てたた親という関係性であるだけ、その屋根の下に居合わせた人間というだけで、お互いがどれだけ努力をしたとしても、居心地のよい関係性を築くことができるか、心から信頼し合える者同士になれるかというのはまたまったく別の話ではないのか、という当たり前の話で、でもすべてを「家族なんだから」という言葉をふりかざして済ませようとする相手にそんなに細かな話をしてもしかたがない、というか試みたけど失敗に終わった、再チャレンジはあるか?という話でもある。これから自分も親も老いて、自分がなあなあのまま放っているその関係について、直視するタイミングはそんなに遠くはないのだろうが、これといった解決方法はまだ見出せていない。
sacaiっぽいなと思って買うのありですか?!と悩みつつ買ったスカートを古着屋の人にsacaiですかと尋ねられ、色々な意味でのやっぱり〜〜が脳内を駆け巡る。メンズ古着が好きでミリタリデッドストックにも目を奪われがちだけど、自分の思想としてあからさまにミリタリだとわかるものは買わないという一線はある、しかしあくまでマイルールなのであまり意味がない気もしている。古着お好きなんですねと言われ、見るのは好きなんですけど、とこたえつつ、わたしの服のことはだいたい服好きの友人のまねっこでしかないのだが、と師とあおぐ友人の顔を思い浮かべた。
帰り道に買った好きなパン屋のサンドイッチ、どんどん小さくなっていくかなしさ、でも味は変わらずおいしい。
産地直産の店でかき菜、のらぼう菜、せり、あぶら菜、からし菜と目につくだけの青菜をわさわさと買った。最近の青菜はゆでてささみと筍と梅ペーストであえるのが気分です。明日から土曜までのノンストップ出勤を生き抜きたい。