朝、谷川俊太郎の訃報にふれた。まず思い出したのが三國万里子『うれしいセーター』に掲載されていた谷川俊太郎のためのセーターがあったということ。確認したらハマナカのリッチモア カシミヤ(カシミヤ100%)のチャコールカラーだった。どのようなセーターがよいかヒアリングをした際「無地のカシミアしか着ないけど」という三國さんへのコメントへの返事に、一度こんな返しをしてみたいものだ、という話をしたことをおぼえている。
それからblueskyのタイムラインをみながら、『君も出世ができる』の歌詞もそうだったのを忘れていたこと、合唱コンクールで確か上の学年の人たちが歌っていて歌詞に惹かれた『二十億光年の孤独』『春に』や、『これはのみのぴこ』をじつはそらんじれることを思い出していた。そもそも谷川俊太郎の詩をどこで初めて知ったのだろう、小中といっしょだった友人と手紙交換をしていたころ、おすすめの本をたくさん教えてもらって、そのなかに谷川俊太郎の詩集のタイトルも含まれていた気がする。谷川俊太郎の詩集は図書館で借りられる。『夜のミッキー・マウス』『夜中にぼくは台所できみに話しかけたかった』もそのころ読んだタイトルであることははっきり記憶している。自分の手帳に好きな箇所を抜書きしたことも。たくさんの人にとって人生のいろいろな局面で出会うさまざまな詩を書いた人が亡くなって、その詩と出会った思い出をたくさんの人が振り返り、悼んでいる。
実家からもらった食べきれないお菓子を職場に持っていったら、自部署で配り切るには多すぎ、しかし全員に2個ずつは配れず、隣の場所に配るのにも若干個数が足らないという微妙な数だった。これは追加でデパートで小分けの同じお菓子を私が買えば?!と本末転倒なことを考えてしまうくらいには、家に持ち帰ってそのお菓子を食べ切る自信がない。結局残りのお菓子を自席に職場に置いたまま、帰宅してしまった。フィットボクシング後、長谷川あかりレシピの切り干し大根としゃぶしゃぶと豆腐のあえものの肉をツナに変えて作り、おでんといっしょに食べた。そしておでんに汁と追加の椎茸、ゆで卵、ちくわぶ、こんにゃくを追加した。大根も入れたかったが、ストウブの容量がオーバー。帰宅したパートナーがおでんを食べたらまた何か追加しようと思っていたところ、卵かけご飯用の卵を使い切ったことを悲しまれ、やはり残りの卵すべてをおでんに投入するのはやり過ぎだったかと反省。
去年うっかりそのまましまい込んでいたバラクラバやミトンを手洗いして軽く脱水をかけ、干している。ふわふわになってほしい。
トランスヘイトに加担するような発言をSNS上で公開する下着販売店のアカウントを人のRTで見かけてしまい、トランスヘイトに加担しない方向で、来店する人が安心して買い物を楽しめる方法を考えることを諦めないでほしいと思った。「生物学的女性」であることがなぜ服を着た状態で判断できると思うのか、自分の性染色体を検査した人はどれくらいいるのか、だとすればそれは社会的な「女らしさ」有していると他者から見て判断できるような見た目で下着販売店に足を運べと言っているのと同じことではないか?それを求めるフェミニストのいうフェミニズムって世の中にどのような変化を求めることなんだろう。ずっと疑問です。