夢に出てきた人が自分に会いたがっている、というような迷信をわたしは信じないけれど、それはそれとして、夢に出てきた人のことをより身近に感じることはあるな、と夢に出てきた友人のことを思い出していた。お元気でしょうか。もうすぐ川沿いの桜も咲くころですね。ここを読んでいるかはわからないけれど、なんとなく書いてみる。
しかし時々じっさいに体験したとしか思えないほど、その手触りが確かな夢を見ることがあって、その度に生きものの脳の仕組みってすごいと毎回びっくりする。現実に知っている人が出てくるようなリアリティのある夢だとそうは思わないけれど、奇想天外寄りな内容のものは、体験してしまったけれど忘れてしまった別の世界の記憶がある、に近い、これは夢だと思い込んでいるだけかもしれないという都合のよい妄想につなげられる。おとなもおとなの年齢になってもショーニン・マグワイア『不思議の国の少女たち』を読んで、自分の扉を見つけられなかった人間に扉の向こうに行けた人間の物語を読ませるな、と切ない気持ちに駆られてしまった人間だけど、結局「見つけられなかった・行けなかった側の人間」であるというかなしみを甘やかな痛みとして一生抱え続けたい側の人間なのかもしれない。三島由紀夫の戯曲『白蟻の巣』に出てきた、後生ですから私の夢をすっかり叶えてしまって、そうして私から奪おうとするのはやめてください、というようなことをのたまうあの使用人、あるいは永遠に向かいの桟橋の緑のランプの光を対岸から眺めていればよかったギャツビー。
寺尾紗穂さんの歌を聴いているといい意味でぞっとしてしまう瞬間が度々あって、なんでこんなに透徹な声で深々と刺し貫くのよ、とアルバム『残照』を久々に聴き返して静かに度肝を抜かれていた。とても好きな声質で、聴くタイミングを選ばないようでいて、そうしたこちらの油断をなんどでも揺さぶる歌声&歌詞。
おつまみみたいなごはんとレモンイエローのビール。
これは自分の受ける仕事ではないと突っぱねるひとの強情さと、そのけんのあるもの言いを淡々と受け止めるひとの冷静さを見ながら、結局その結果をひっかぶる身として、言い分はわかるが、どちらのひとのやり方にも基本的には寄り添えない、寄り添いたくはない、しかしそれぞれのこのやり方を盗むことができたらもう少し職場環境で息がしやすくなるかもしれないなと後から振り返って考えている。その場にいる時はとにかくいたたまれず、嵐が過ぎ去るのをただ息を潜めて待つだけだったが、本当はあの嵐を面白がれたらいいんだろうな。