お昼ご飯を食べるとだいたい仕事モードスイッチが一回きれてしまって、午後までモチベーションを継続させておけない。再度立ち上げる必要がある。普段は考え事を引きずりまくるのに仕事の昼だけ気分転換がうますぎる人間なんなのよ。
晩ごはん、駅からまあまあ遠い立地であることを確認し忘れ、焦って競歩で店に向かったら友人も時間に遅れていて結果オーライだった。好きなタコス店の自家製トルティーヤは、わりともちっとした分厚めの生地が多いけど、こちらのタコスは薄めではしっこはかりっ、中央よりはほどよくもちっとしていて、出会ったことがなかったタイプの食感。それぞれの皿にどこかだしっぽい味わいを感じたのはとうもろこし由来だったのだろうか。カリッカリに揚げたケサディーヤもちょっとかき餅みたいでおいしかった。
昨晩、親からの電話で、実家の犬が少し前に事故にあって大がかりの手術をしたことを知った。現在はもうだいぶ日が経って落ち着いたということだったのだけど、動揺のあまり電話を切ったあとぼろぼろ泣いてしまい、そんなふうに涙が出てきたことにびっくりした。わたしは日々面倒を見ているわけじゃないし、ときどき会って抱っこしたりするくらいしか関わり合いがない存在なので、わたしが心配して帰ったところで犬側にとってはなんの感情もないだろう。こうやって遠くの、特に何もしていない立場の人間がかってに心を寄せてもしかたないなと思っている。そうは思っているしこれもエゴではあるのだけれど、だいじにされていてほしいし、ひどいめにあってほしくない。今回の話を聞いただけで、想像しただけでつらくなった。膝に乗せたことがあり、実家で暮らしている犬、という意識が影響する部分は大きく、その質量を感じ取ったことがあるか、だれが飼い主か、は犬の存在をひとつの個体として身近に感じさせる条件として機能しているのだと実感した。結局犬のためにできることは、犬の飼い主の親の方のケアをわたしができる範囲でやることくらいなんだろうな、と思いながら、今日も犬の幸せを願っています。それが犬にとってなにかはよくわからないけれど。