5月17日

socotsu
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公開:2024/5/17

ゴールデンウィークの代休など、この時期はだいたい大型連休が終わってもちょこちょこと休みがある。最終目的地を美術館に据えて、寄り道と称してパンを買ったり大きな川にかかった橋を渡ったり川を見ながらベンチで本を読んだりした。あまりに気候が良く、ベンチでずっと本を読んでいたい気持ちになってしまったけど、美術館にも行きたかったので、なんとか腰を上げて最寄駅へ。

大きな川が向こうに見え、手前には歩道とすすきのはら

本を読むためにあるベンチだった。

東京都現代美術館「翻訳できないわたしの言葉」ポスター

今まで興味を持って読んできた本の延長線にあるようなテーマだった。自分にとって「母語」だったかもしれない言語を後天的に学ぼうとすることで生まれる葛藤に関する対話を記録したマユンキキさんの映像作品が特に印象に残っている。移民してきた人たちの世代が進んで、もはや「母語」であったかもしれない言語を親世代が日常的には使わない子どもたちの世代についての知識がほとんどなかった、ということを知った。そして「生まれる葛藤」などと書いた後に、その「葛藤」をうませている社会のマジョリティ側の人間としてより適切な表現はなんだろうかと考え込んでしまったが、最適解は見つけられていない。対話相手の金サジさんが、後天的に韓国語を学ぶ立場にも関わらず、周囲の人に「血があるから」(だから習得できる)という表現で励まされるエピソードをネガティヴなニュアンスで語っていたパートで、その「血があるから」と口にした人たちが金サジさんと同じようなルーツを持つ人である可能性もあるけれど、そうであってもこれはひとつの「人種主義」と呼んでもよいのだろうかと想像した。わたしも含めて多くの人が陥りがちな、一見「褒め」に位置付けられる差別の視線。隣接して設置されているセーフスペースも、用意されているパスポートの内容を含めてとてもよく、ここからアイヌの文化について学ぶ、ある意味での責任が手渡されたように感じている。関連書籍のコーナーに多和田葉子や温又柔が置いてあってやはり、と思いつつ、まだ読めていない『言葉の展望台』を近々手に取りたい。

@socotsu
そこそこ/日記のタイトルは川柳